NHK連続テレビ小説「あさが来た」第11週では、九州・加野炭坑で落盤事故が発生し、加野屋の経営基盤が揺らぐことになります。この記事では、加野炭坑のモデルである潤野炭鉱での炭鉱爆発事故の時系列、歴史についてまとめます。
※「加野炭坑」は、かつて福岡県飯塚市にあった「潤野炭鉱」がモデルになっています。ただし原案小説、ドラマでは炭鉱買い取りの時系列など、史実が改変されています。小説、ドラマで描かれる炭鉱爆発事故は、あくまで史実を参考に創作した「フィクション」と考えた方がよいでしょう。
なかなか軌道に乗らなかった潤野炭鉱
ドラマではあさが20代の若さ(明治4年?)で炭坑事業に乗り出していますが、史実ではそれよりだいぶ後、広岡浅子が37歳のころ(明治19年)に潤野炭鉱を買い取り、本格的に炭鉱事業に参入しています。
しかし、小規模事業者ゆえの設備不足からか、相次ぐ落盤事故に見舞われたほか、炭坑内に大きな断層が立ちはだかったことで思ったように産出量があがらず、炭坑は休業を余儀なくされています。
(※ドラマ原案「小説 土佐堀川」では、明治10年に落盤事故で死者15名発生。ドラマでは同年に落盤事故が発生、死者はなし。これらのエピソードが史実に基づくものなのか、確認は出来ませんでした…。)
明治32年に炭鉱を売却
浅子が周囲の反対を押し切り炭鉱事業を再開したのは明治28年、浅子46歳の頃でした。この時浅子は自ら九州に赴き、時には炭坑で生活をともにし、明治30年頃には見事優良炭鉱へと生まれ変わらせています。
その後、明治32年に潤野炭鉱は売却され、加島屋の手から離れています。
ふたつの大規模爆発事故
史実に残る潤野炭坑の大きな落盤事故は、加島屋が売却した後に起きています。
明治36年(1903年)にはガス爆発事故が起き、死者・行方不明者64人を出しています。また、大正2年(1913年)には粉塵爆発事故が発生しており(当時の名称は「二瀬炭鉱」)、この時は死者・行方不明者101人を出す大惨事となっています。
現在でも潤野炭鉱跡地横の墓地には、明治36年発生のガス爆発事故の「変死者之碑」(慰霊碑)が残されています。
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