NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」が藤子・F・不二雄を特集していたので、食い入るように見てしまいました。国民的漫画家でありながら意外に知られていない素顔なども紹介していて、とても楽しい番組でした。
藤子・F・不二雄(藤本弘)といえば東京・椎名町にあった「トキワ荘」での若かりし頃の生活が有名。大御所となった後、自宅のある向ケ丘遊園(神奈川県川崎市)から小田急線で職場のある新宿まで電車通勤していたという話は、あまり聞いたことがありませんでした。出勤前には必ず喫茶店(現存する喫茶ピース=西口ビックカメラの横=など)に寄りネームを描き、一日一本ペースで「ドラえもん」を執筆していたそうです。
漫画家は、普通の人であれ
藤本は近所の小さな寿司屋に家族で通うことを楽しみとする、慎ましい生活を送っていました。「漫画家は、普通の人であれ」という藤本の言葉は、大勢の人が楽しめる漫画を描くためには、読者との間にたくさんの共感がないといけないという考えから。晩年まで、規則正しく淡々とした日常を送ることを心がけていました。
少年時代は手塚治虫がバイブル
番組では子供時代から「オバケのQ太郎」のヒット、「ドラえもん」を生み出すまでの苦悩の日々を描いていました。
富山県高岡市生まれの藤本は子供の頃いじめられっこで、いつも空想の世界に逃げ込んでいました。小学校五年生の時に転校してきた安孫子素雄(藤子不二雄A)と仲良くなり、当時19歳だった手塚治虫が描いた漫画「新宝島」を二人で奪い合うようにして読んでいたとか。自分たちが描いた漫画を手塚に送ったところ、「将来が楽しみ」という直筆のハガキが返ってきたことから、ますます漫画を描くことにのめり込んでいきます。
高校卒業後、すでに新聞社に就職していた安孫子に一緒に漫画家になろうと誘い、二人で上京。手塚治虫が退出したことで空いた「トキワ荘」の一室に転がり込み、そこで赤塚不二夫、石ノ森章太郎らと出会うことになります。
ドラえもんの生みの苦しみ
「オバケのQ太郎」のヒットにより一躍有名漫画家となった藤子不二雄(オバQは二人の共同制作)。その後藤本は「ウメ星デンカ」「パーマン」などの良作を発表しますが、なかなか大ヒット作を描けず、周囲の期待に苦しむ日々を過ごします。
そんな時に、描きたいように描いた「ミノタウロスの皿」という大人向けのSF漫画が、「自分が楽しみ、読者が楽しむ」という「流儀」を生み出すことになります。
吹っ切れた先にあったのは小学生向け学年誌の新連載で、これが「ドラえもん」。この「ドラえもん」も当初はそこまでの人気はありませんでした。しかし徐々に知名度も上がり、やがて発売した単行本がバカ売れし、ご存知の通り国民的世界的漫画へと成長していくことになります。
▼ドラえもんの誕生、最終回についてはこちらの記事にもまとめています。
ドラえもん誕生秘話 幻の最終回も プロフェッショナル・仕事の流儀より
晩年病気がちだった藤本は、机の上で眠るように亡くなったそうです。その机には完成したネームが置かれており、生涯現役で描き続けた漫画家らしい最期でした。「子どもたちには冒険、夢の気持ちを忘れて欲しくない」という藤本の希望は、残された漫画を通して子どもたちに今も伝わり続けています。