「風、薫る」新潟・高田の黒川病院 モデルは知命堂病院

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NHK連続テレビ小説「風、薫る」第18週では、りんが帝都医大の教授助手だった黒川勝治から家業である黒川病院の看護婦取締にならないかと誘われる姿が描かれます。

この黒川病院は、りんのモデルである大関和が勤務した新潟・高田の知命堂病院がモデルになっています。

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目次

黒川病院の看護婦取締に誘われるりん

ある日、りんが舎監として働く新潟・高田の寮に帝都医科大学附属病院時代の同僚だった黒川勝治(平埜生成)が訪ねてきます。

黒川は、今井教授(古川雄大)のもと帝都医大の外科で働いていた教授助手。病院で働き始めた看護婦見習いのりんや直美たちに厳しく接してはいたものの、どこか筋の通った真面目な人物でしたね。

黒川はこの春から地元の新潟・高田に戻り、実家が営む地元の有力病院・黒川病院の跡取りとして働き始めているようです。黒川はりんに対し、黒川病院で看護婦取締として働いて欲しいと依頼することになります。

黒川によれば新潟にはトレインドナースが存在せず、りんが帝都医大を退職した理由を知りつつも、どうしても黒川病院に力を貸してほしいとのこと。

突然の依頼に一度は断りの返事をするりんですが、史実を参考にすれば恐らくりんはこのオファーを受諾し、黒川病院で働き始めることになりそうです。

モデルは高田の知命堂病院

りんが黒川病院で働き始めるというエピソードは、りんのモデルである大関和が新潟・高田の知命堂病院で看護婦取締として働いた史実のエピソードがもとになっています。

明治23年(1890年)、大関和は最初の勤務先だった帝国大学医科大学附属第一医院で看護婦待遇の改善のための働きかけなどをしていたことを煙たがられた末に、同病院を退職。盟友の鈴木雅(直美のモデル)の取り計らいもあり新潟の高田女学校に舎監として赴任しています。

30人近い女学生たちと生活をともにし、現地で廃娼運動に参加するなど新たな生活を送っていた大関和。

そんな生活が始まって一年ほどした頃。大関和は高田の街なかで第一医院時代の同僚だった医師・瀬尾原始(黒川勝治のモデル)と偶然再会しています。瀬尾は、第一医院で退職直前だった大関和に対して最後まで態度を変えずに接してくれた温厚な人物です。

瀬尾はすでに第一医院を退職しており、父が地元の高田で開業していた家業の病院(知命堂病院)を継ぐことになったのだそう。小さな町医者だった同病院はつい最近に大きな洋館が建設され、最新の医療設備、実績のある医師などを取り揃えた大きな病院・知命堂病院として再スタートを切るタイミングでした。

瀬尾は偶然再会したのも何かの縁だとして、力量を高く評価していた大関和を知命堂病院の看護婦長に誘っています。瀬尾はいずれこの知命堂病院に看護婦養成所を作り、北越地方にまだ少なかった看護婦を育てたいとも考えていました。

赤痢集団感染の現場で大きな成果、看護婦の育成に尽力

大関和はすぐに高田女学校の舎監を辞して知命堂病院で働く決断をしています。知命堂病院の開院とともに看護婦に復帰した大関和は、5年近くにわたり地元医療への貢献を見せ、養成所の教員としても多くの看護婦を育て上げています。

中でも大関和の名を広く知らしめたのが、赤痢が集団発生した際に行った避病院の環境改善の実績でした。

当時、村などで赤痢が集団発生すると、患者は避病院とは名ばかりの隔離小屋に閉じ込められ、糞尿まみれの中でほぼ放置。ただ死を待つような酷い環境に投げ入れられていました。当然患者の家族たちは避病院に連れ去られるのが嫌なので患者を隠蔽し、それが感染拡大に拍車をかけるという悪循環もありました。

赤痢の集団発生が頻発し頭を悩ませていた県は、知命堂病院に防疫の協力を要請。看護婦長だった大関和は若い看護婦を連れ、高田の各農村の防疫、避病院の環境改善(大量の穴を掘って簡易トイレを造成、室内衛生環境の大幅改善、消毒の徹底など)に奔走しています。

大関和らの奮闘により避病院の環境は大幅に改善し、死亡率も激減。衛生環境を整えることの重要性を世間に知らしめ、大関和への称賛の声も集まっています。

大関和は知命堂病院で新たな経験を得た後に、盟友の鈴木雅が東京で立ち上げていた派出看護婦会・東京看護婦会に合流(帰京後も赤痢の現場に多数出動)。5年半にわたる高田での生活に別れを告げています。

「風、薫る」でも、黒川病院に誘われたりんが赤痢の集団発生現場で奮闘する様子や、後続となる看護婦を育てていく様子が描かれていくものと予想します。

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