【真田丸】「武藤喜兵衛」の名を昌幸が名乗った経緯とは?

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NHK大河ドラマ「真田丸」第4話より。真田昌幸(草刈正雄)がかつて名乗っていた「武藤喜兵衛(むとう・きへえ)」という名前についてまとめます。

第4話では、ようやく織田信長(吉田鋼太郎)に会えることになった真田昌幸、信繁(堺雅人)親子が諏訪・法華寺を訪ねる顛末が描かれます。当時の法華寺には、信州に入っていた信長の本陣が置かれていました。

法華寺には織田の諸将が集まっており、その中には徳川家康(内野聖陽)の姿もありました。

「武藤喜兵衛」と家康との因縁

側近・本多正信(近藤正臣)から、真田昌幸という男も信長に呼ばれて法華寺に来ていると聞かされた家康でしたが、真田昌幸などという名前に聞き覚えはありません。しかし、三方ヶ原の戦いで散々手を焼かされた侍大将「武藤喜兵衛」という名前はしっかり覚えていました。

家康から「武藤喜兵衛」という男について話を聞かされた昌幸は「そのような男は知らない」とシラを切りますが、当の昌幸こそが、その「武藤喜兵衛」だったのです。

信玄の寵愛を受け、武藤家に養子入り

わずか7歳で甲斐武田家の人質として甲斐国へ入り、やがてその才能を見出され、信玄から寵愛を受けた昌幸。

昌幸は信玄から甲斐の名族の名跡を継ぐことを許され(※)、武藤喜兵衛昌幸という名前を名乗るようになります。(※武藤家は信玄の母系・大井市の支族で、昌幸は武藤家に養子に入っています。武藤家は実子が早世したため、昌幸を養子に迎えたとされます。)

しかし真田家を継ぐはずだった長兄・信綱、次兄・昌輝がともに長篠の戦いで戦死すると、昌幸(三男)は武田勝頼の許しをもらい、真田姓に復して家督を継いでいます。

昌幸を恐れた家康

「真田丸」第4話でも触れられる徳川家康と真田昌幸との因縁は、今後も続いていきます。

昌幸は一度は家康の家臣となりますが、やがて決別。上田合戦では昌幸の知略が冴え渡り、二度に渡り多勢の徳川軍を撃退し、上田城や真田領の防衛に成功しています。

昌幸が亡くなった後に行なわれた大阪冬の陣では、「真田が大坂城に入城した」と聞いた家康が「親の方か、子の方か?」と昌幸の死を疑い恐怖に震えるなど、家康にとって昌幸は長く恐ろしい存在として君臨していくのです。

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