「虎に翼」桂場等一郎が書いた名判決文「水中に月影を掬い上げようとするかのごとし」の意味 帝人事件・石田和外の判決文がモデルに

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NHK連続テレビ小説「虎に翼」5月3日(金)放送の第25回では、ついに共亜事件の公判が結審し、16人の被告人に判決が言い渡されます。

武井裁判長が読み上げた判決文は共亜事件を扱った検察の問題点を鋭く指摘したものであり、穂高教授が絶賛するところとなります。

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判決文「水中に月影を…」に込められた意味

共亜事件の公判は100回を超えた末に、ついに結審の日を迎えます。

武井裁判長(平田広明)は神妙な面持ちで被告人16人全員に「無罪」を言い渡すと、以下のような判決文を読み上げることになります。

本件において、検察側が主張するままに事件の背景を組み立てんとしたことは、「あたかも水中に月影を掬(すく)いあげようとするかのごとし」

すなわち、検察側の主張は証拠不十分によるものではなく、犯罪の事実そのものが存在しないと認めるものである。

この判決文には、事件を裁いた裁判官たちの強い思いが込められているようです。

「あたかも水中に月影を掬いあげようとするかのごとし」という言葉が意味するのは、実態が無いもの(=水面に映る月影)をいくら掬いあげようとしても、そこにはそもそも何も無いのだから意味がない行為だということ。

共亜事件はそもそも実態が何も無いのだから、いくら証拠を掬い集めようとしたところで何も出てくるはずがありません。

判決文は(強要した)自白の一点で公判を乗り切ろうとした検察側の杜撰さ、傲慢さを厳しく非難するとともに、「水面に映る月影」という文学的表現を用いて一連の事件が事実無根であることを強調したのでした。

直言(岡部たかし)の弁護を担当した穂高教授(小林薫)はこの判決文を書いたのが判事の桂場等一郎(松山ケンイチ)だとすぐに気がついたようです。

穂高は「それにしても名判決文だった。うん、よい、実に君らしい」「蟻一匹通さぬ、見事なまでの一分の隙もない判決文だった」「君の中のロマンチシズムが、怒りが、よ〜く表れているじゃないか」と桂場を褒め称えると、桂場は「あいつら(検察)は私利私欲にまみれたきったない足で踏み込んできたんですよ。司法の独立の意義もわからぬクソバカどもが!」と検察の横暴に対する怒りを表明しています。

※第23回(5月1日放送)では、共亜事件の裁判長を担当することになった武井が東京地裁の屋上(?)で桂場と以下のような会話を交わしています。

武井「えらい事件を引き受けることになってね…。君の法曹としての人生を左右するかもしれないが、助けてくれるか?」

桂場「……!(驚いた顔の後に強い決意の表情を見せる)」

モデルは帝人事件・石田和外の名判決文「水中に月影を掬するが如し」

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「虎に翼」で描かれている共亜事件は、昭和初期に発生した大疑獄事件・帝人事件(ていじんじけん)がモデルになっています。

帝人事件ではドラマと同様に16人の政財界関係者が起訴され長期に渡る公判が行われましたが、最終的に事件はまったくの事実無根であるとして16人全員の無罪が確定しています。

この事件の公判には第一審裁判官として裁判官の石田和外(いしだ・かずと=「虎に翼」桂場等一郎のモデル人物)も加わっており、石田は左陪席裁判官として判決を起案。

石田は事件の事実無根ぶりを強調するために「水中に月影を掬(きく)するが如し」という名判決文を生み出し、「司法界に石田あり」と大きな注目を集めています。
※「掬する」=水などを両手ですくうこと。比喩的に、事情などをくみとって察すること。

この石田和外という人物は後に司法省人事課長、最高裁判所事務局(現・最高裁判所事務総局)の人事課長・人事局長・事務次長、東京地方裁判所長、最高裁判所事務総長、東京高等裁判所長官などを歴任。最終的に第5代最高裁判所長官に就任し、日本の法曹界に大きな足跡を残した人物として知られます。

寅子のモデルである三淵嘉子は、司法省の人事課長だった石田の手引きにより司法省民事部に入庁する機会を与えられています。また、嘉子が最高裁判所事務局で働いていた当時に石田は司法省から東京裁判所事務局に異動をしており、嘉子の活躍を見守っていたようです。

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