「虎に翼」裁判官・多岐川幸四郎(滝藤賢一) モデルは「家庭裁判所の父」宇田川潤四郎か

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NHK連続テレビ小説「虎に翼」第11週から登場する家庭裁判所設立準備室の室長・多岐川幸四郎(滝藤賢一)についてまとめます。

寅子の人生に大きな影響を与えていく多岐川幸四郎は、日本の家庭裁判所の基礎を作った「家庭裁判所の父」宇田川潤四郎がモデルになっていると予想します。

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目次

【虎に翼】準備室長の多岐川幸四郎 家庭裁判所の設立に奔走

戦後の1948年(昭和23年)。最高裁の初代人事課長に就任していた桂場(松山ケンイチ)から呼び出された寅子(伊藤沙莉)は、最高裁内に設置される「家庭裁判所設立準備室」への異動を申し渡されます。

準備室は、新憲法のもと新たに誕生することになる「家庭裁判所」の設立を準備する部署。家庭裁判所設立の期限は2ヶ月後に迫っており、準備室は屋上のバラック小屋を本拠とした急ごしらえの部署です。

準備室を率いるのは、室長に抜擢された多岐川幸四郎(滝藤賢一)。かなりの変わり者で飄々と掴みどころがないように見える多岐川ですが、戦前は数々の凶悪事件を担当し、朝鮮半島の裁判所にもいたという百戦錬磨の裁判官です。

多岐川は、朝鮮半島から引き揚げてきた際に日本の街中に戦災孤児が溢れかえっている様子を見て、残りの人生を彼らのため(少年問題)に捧げることを誓っています。

生きるすべを持たない戦災孤児や、辛い生い立ちゆえに犯罪に手を染めてしまう少年たちの救いの手になっていく「家庭裁判所」。その理想の実現に向けて情熱を持って動く多岐川のもと、寅子は多くのことを学んでいくことになります。

【史実モデル】「家庭裁判所の父」宇田川潤四郎がモデルか(+準備室責任者・市川四郎?)

▼この記事は「家庭裁判所物語」を参考に書いています。家庭裁判所の誕生と整備に尽力した宇田川潤四郎、内藤頼博、石田和外、三淵嘉子ら魅力的な人たちの活躍が小説形式に近い平易な文章でまとめられており、当時の空気感や熱量をリアルに感じられます。特に物語の中心人物である宇田川潤四郎が「水行」「滝行」「ピンピン体操」を行う様子などがコミカルに描かれ、部下たちに愛されたという宇田川の奇人変人ぶりが楽しめます。

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「虎に翼」に登場する多岐川幸四郎は、日本の家庭裁判所の基礎を作り「家庭裁判所の父」と称される裁判官・宇田川潤四郎がモデルになっている可能性があります。※最高裁「家庭裁判所準備室」の責任者に就任した市川四郎という人物もおり、こちらも多岐川幸四郎のモチーフの一人か?

はじめに、宇田川潤四郎の足跡を簡単にピックアップします。
※①戦前に大陸(半島)方面で裁判官として活躍し、②帰国後は東京の街の戦争孤児に心を痛めて少年問題に関心を持ち、③家庭裁判所の誕生と整備の中心人物となり、④アメリカ帰りの内藤頼博(=虎に翼・久藤頼安)と連携して日本の家庭裁判所の理念を生み出し、⑤バラック小屋のような家裁関連の部署で三淵嘉子(=虎に翼・寅子)の型破りの上司であったことなどの共通点から、当ブログでは多岐川幸四郎のモデル=宇田川潤四郎と予想しています。

★宇田川潤四郎とは?★

・戦前に満州に渡り新京地方法院の審判官(裁判官)になった後に、新京の中央司法職員訓練所の教官に就任し、法律家を志す現地の若者たちを育てる。

・戦後、命からがら旧満州から帰国すると、日本の街にあふれる戦争孤児を見て少年問題に大きな関心を持つ。

・帰国後には厳冬の満州での生活を支えてくれた愛妻・千代子を腸チフスで亡くしてしまう。悲嘆に暮れた後、宇田川は妻との約束として、その生涯を少年問題に捧げる決意を固める。

京都の少年審判所長に就任し、学生を巻き込んだBBS運動(大兄姉運動)のムーブメントを生み出す。浮浪児や非行少年の保護観察をボランティアの学生たち(Big Brothers and Sisters)に任せた。

宇治少年院の設立に尽力。

・宇田川が主導したBBS運動の学生たちの真摯な声が、合併して家庭裁判所になることに猛反対していた少年審判所、家事審判所の幹部たちに届き、風向きが代わる(※家庭裁判所はもともとあった少年審判所と家事審判所を統合して誕生したが、そこに至るまでに両者幹部からの合併反対の大きな声が続いていた)。

・BBS運動の成果などが評価されて最高裁の初代家庭局長に抜擢されると、破天荒な行動力と折衝力で誕生したばかりの家庭裁判所の制度設計、基礎づくりなどを担う。この時、家庭局の局付の事務官として三淵嘉子(寅子のモデル人物)がおり、嘉子は上司である宇田川に大きな影響を受けている。

・家庭裁判所の方針として「五つの性格」を掲げ、これが長らく日本の家庭裁判所の基本理念となる。

・多様な経歴を持つ調査官(当初は少年保護司)を集め、家裁に送られてくる少年事件の当事者たちをケアする道筋を整える。積極的に女性の調査官、事務官を採用し続ける。

・調査官の人材育成施設「家裁調査官研修所」設立の中心人物になる。家庭局長を8年務めた後には、初代家裁調査官研修所長だった内藤頼博(久藤頼安のモデル)の後を継いで同研修所の所長になると、名物所長として多くの調査官を育てる。

・京都家庭裁判所、東京家庭裁判所の所長などを務める。

寅子のモデル・三淵嘉子と宇田川潤四郎は、1949年(昭和24年)1月1日に家庭裁判所が出来るのと同時に発足した最高裁判所事務総局の「家庭局」で部下と上司の関係になっています。

三淵嘉子は家庭局付の事務官(家事担当)として、局長の宇田川の指導のもと、誕生したばかりの家庭裁判所の基礎づくりに尽力しました。

宇田川は朗らかで人に好かれやすい人物だったそう。宇田川は後輩や部下に対して「諸君!」「君たちぃ!」と呼びかけ、その独特な熱弁ぶりが「宇田川節」として愛されるなど、天性のリーダーシップを持っていたそうです。

ちなみに最高裁家庭局のオフィスは、戦争で破壊された旧大審院(最高裁の前身にあたる)の赤レンガを修復した屋根裏に急ごしらえで作られ、「まるで祠のようなバラック小屋だ」と三淵嘉子は呼んでいました。「虎に翼」における家庭裁判所設立準備室のバラック小屋具合と重なりますね。

また、家庭局は当時としては桁外れに自由な空気に満ちていたそうで、立場に関係なく様々な議論がかわされたそうです。夜には七輪で焼いたスルメやコロッケで飲み会が始まり、美声で知られる三淵嘉子が十八番である「リンゴの歌」「コロッケの歌」「モン・パパ」をたびたび披露したそうです。

※「虎に翼」では寅子が家庭裁判所準備室に配属され、準備室長の多岐川のもとで家庭裁判所開設の準備に奔走する姿が描かれます。

しかし、史実の三淵嘉子が最高裁・家庭裁判所準備室(市川四郎室長)に所属したというはっきりとした文献は見当たりません。嘉子は当時、最高裁事務局(後の事務総局)民事部の局付という立場で働いており、後に家庭裁判所の準備作業にも参加するようになり(※これが準備室に所属したことを意味するのかは不明)、家庭裁判所の規則の制定作業などに従事したようです。その後、嘉子は家庭裁判所の開所とともに発足した最高裁判所事務総局 家庭局の局付となり、宇田川潤四郎の部下になっています。

【史実モデル】宇田川潤四郎が掲げた家裁「五つの性格」

家庭局長に就任し、産声をあげたばかりの家庭裁判所の青写真を描いていった宇田川潤四郎。

戦前にアメリカに渡りニューヨークの先進的な家庭裁判所の姿を学んだ最高裁秘書課長の内藤頼博(「虎に翼」久藤頼安のモデル)からのアドバイスを受けながら、宇田川潤四郎は家庭裁判所の基本理念となる「五つの性格」を書き上げ、日本の家庭裁判所の基本理念を作り上げています。

※宇田川潤四郎が掲げた家庭裁判所の「五つの性格」とは、「独立的性格」「民主的性格」「科学的性格」「教育的性格」「社会的性格」のこと。アメリカの家裁を参考に、地方裁判所などから独立した別個の裁判所であること、親しみのある民主的な場所であること、警察や検察、児童相談所、養護施設など関係各所と綿密な連携をとるべきであること、司法的な役割だけでなく教育的、福祉的機能を持つ裁判所であることなどの理想が掲げられています。

8年間に渡り家庭局長として家庭裁判所の制度設計づくりに奔走し、その後には多岐にわたる教養や知識が必要とされる家裁調査官を育成する家裁調査官研修所の名物所長となり、多くの人材を育て続けた宇田川潤四郎。

いつしか彼は「家庭裁判所の父」と呼ばれるまでになり、かつての部下であった三淵嘉子もそんな宇田川潤四郎を深く尊敬し続けたようです。

宇田川潤四郎は大腸がんにより63歳で亡くなっていますが、その死の間際にも三淵嘉子らを自宅に呼び、「どうか後のことを頼む」と少年法の改正、家庭裁判所の将来などを託したそうです。

▼朝鮮半島にいた多岐川と、朝鮮半島に帰ってしまった崔香淑。このあたりが伏線となり、香淑の再登場があるかも知れません。

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