NHK連続テレビ小説「エール」10月14日(第88回)では、裕一の恩師である藤堂清晴先生(森山直太朗)が、ビルマの前線で敵の急襲にあい戦死する衝撃の展開が描かれました。
史実で古関裕而が恩師の戦死に直面したのか、などをまとめます。
急襲を受け壊滅する藤堂の部隊
音楽慰問のためにビルマを訪れていた裕一(窪田正孝)は、従軍記者・大倉(片桐仁)を通じて恩師・藤堂が大尉としてインパール作戦に参加していることを知ります。
ようやく前線に行くことが許された裕一は、藤堂率いる部隊と合流し、激戦地で恩師と再会。藤堂が集めた急ごしらえの楽団メンバーたちとも交流を深め、心を熱くすることになります。
ところが、楽団たちと新曲「ビルマ派遣軍の歌」(作詞・水野伸平)を部隊の前で発表する当日。藤堂の部隊は敵の急襲を受けるとほぼ壊滅状態になり、藤堂や楽団のメンバーたちは裕一の目の前で銃弾を受けて亡くなってしまいます。
藤堂の助けもあり命だけは助かった裕一は、帰国後、藤堂から託された手紙を妻・昌子(堀内敬子)に渡すために藤堂家に向かい…。
恩師の死と直面するストーリーはフィクションか
こちらの記事にもまとめていますが、裕一のモデル・古関裕而は戦時中にたびたび従軍し、戦地の兵士たちを慰問しています。
具体的には①昭和13年(1938年)日中戦争における重要な局面であった漢口の攻略の様子を記録するための従軍、②昭和17年(1942年)にNHKが派遣した「南方慰問団」に参加しビルマのラングーンやビルマ各地、中国雲南の奥地、マレー半島へと駆け抜けた過酷な慰問旅、そして③終戦間際の昭和19年(1944年)にビルマを訪れ「特別報道班員」としてインパール作戦に参加する兵士たちを慰問した慰問旅などです。
「エール」で描かれたビルマへの慰問旅は、昭和19年に「特別報道班員」としてビルマ・ラングーンへと向かった古関裕而の体験がモチーフになっています。
ただし、この時の古関裕而は長期間ラングーンに留まり、同行者だった作家・火野葦平、画家・向井潤吉らが前線で見てきた凄惨な様子を伝え聞くという形で戦地の悲惨さを体感しています。
藤堂清晴先生のモデルと考えられる遠藤喜美治は戦後である昭和46年(1971年)に80歳で亡くなったといわれており、藤堂のビルマまでの戦死はフィクションと考えられます。※古関裕而の自伝でもそのような言及はありません。
古関裕而は昭和13年の中国従軍で、夜間に中国兵たちの来襲を受けて同行者一同で自決を相談し合うという九死に一生を得る体験をしており、こうした経験が「エール」のストーリーのモチーフになっているかも知れません。
死の前夜に藤堂先生が歌った「暁に祈る」(ああ、あの顔で、あの声で)は、古関裕而が中支戦線に従軍した経験を活かし、兵士の心情を理解して作曲した曲だと自著で語っています。