【まんぷく】萬平がつくる泉大津の製塩所 モデル・安藤百福の製塩所はどこにあった?

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NHK連続テレビ小説「まんぷく」では、ヒロインの夫・立花萬平が戦後に大阪・泉大津で製塩所を開くことになります。このエピソードは、萬平のモデル人物・安藤百福氏(日清食品創業者)が実際に泉大津で製塩所を開いた史実がモデルになっています。

この記事では、安藤百福氏が開いた製塩所についてまとめるとともに、その製塩所を開いた場所(旧大阪陸軍造兵廠大津大砲試験場の跡地)についてまとめます。

戦後、賑やかな製塩所をつくる萬平 海岸撮影は吹上浜

戦争により「理創工作社」を失った立花萬平(長谷川博己)。闇市の人々の様子からハンコ製造を手がけて再起をはかると、やがて使われなくなった軍の倉庫を世良勝夫(桐谷健太)から紹介されたことをきっかけにして、大阪・泉大津で製塩所「たちばな塩業」を開くことになります。

製塩所には元泥棒・神部茂(瀬戸康史)や血気盛んな青年・岡幸助(中尾明慶)などの若者に加え、ヒロインの姪っ子・香田タカ(岸井ゆきの)らも関わることになり、賑やかな労働の場となっていきます。

【まんぷく】塩軍団(たちばな製塩所・従業員14人)メンバー、出演俳優まとめ

※泉大津に移り住んだ福子たちを出迎えた「美しい海岸の風景」は、淡路島・南あわじ市の「吹上浜」で撮影が行われました。

▼「白砂青松100選」にも選ばれた吹上浜。海岸には神部茂が釣りをしたと思われる小さなコンクリの防波堤(波止?)も見えますね。

泉大津の海沿いに製塩所をつくった安藤百福

▼この記事は「魔法のラーメン発明物語」などを参考に書いています。百福氏ご本人が語る自伝であり、創業家の熱意が読み手に伝わります。

この一連のエピソードは、戦災により大阪の事業所のほとんどを失った安藤百福氏が、1946年(昭和21年)に移り住んだ泉大津で、製塩所を立ち上げるに至った史実が参考になっています。

自然豊かな自宅近くの海岸に「旧大阪陸軍造兵廠・大津大砲試験場」の広大な敷地があったことから、百福氏は管轄の大阪鉄道局に掛け合ってこの土地を無償で借り受けています。

当時、仕事がなくぶらぶらしていた多くの若者、復員軍人の面倒を見たいと考えていた百福氏は、旧造兵廠構内に「薄い鉄板」がたくさん積まれていたこと、そして目の前に海が広がっていたことなどから、塩を作ろうとひらめきます。

疎開中に赤穂の塩田を観察した程度の知識しかなかった百福氏でしたが、泉大津の浜一面に鉄板を並べ、自己流で効率的な製塩方法を考え出し、製塩業を立ち上げています。

この製塩所、そして同時期に立ちあげたイワシ漁には多くの若年労働者が集まりました。旧造兵廠の建物を工場や宿舎とし、妻・仁子氏らが若者たちの親代わりとなり、賑やかで楽しい生活が繰り広げられたのです。 

※こうした若者たちの奔放な生活が当局から目を付けられ、百福氏は脱税の容疑をかけられて収監されてしまいます。詳しくは別記事にまとめる予定です。

製塩所があった場所

泉大津の海沿い、大津川河口にあたる場所には、江戸時代末期に海防の必要から「台場」が築かれました。明治期からは大砲試験場(旧大阪陸軍造兵廠大津大砲試験場)として使用されましたが、終戦とともにその役目を終えています。ここに百福氏の製塩所があったとされます。

※泉大津市のホームページに掲載されている歴史地図「散策いずみおおつ〜海が語る歴史篇」(PDF)を参考にすれば、ちょうど阪神高速湾岸線の高架が「汐見下水処理場」を横切る一帯あたりに製塩所があったと推測できます。

泉大津市のホームページ(古地図で見る泉大津市)には埋め立てが進む前(昭和22年)の、自然の海岸線を残していた当時の地図が掲載されています。これを現在の地図と比較するとわかりますが、「旧大阪陸軍造兵廠大津大砲試験場」跡地(台場)は、大津川の河口部、まさに海の目の前にありました。

▼「汐見下水処理場」と阪神高速湾岸線が交わるあたり。恐らく府道大阪臨海線(29号)がおおよそ昔の海岸線に沿っていたと考えられ、下図マーク(赤いピン)のあたりの河口部で陸地が三角形のように海にせり出し、「台場」「旧大阪陸軍造兵廠大津大砲試験場」=安藤百福氏の製塩所=があったと考えられます。

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