NHK連続テレビ小説「ブギウギ」(第5週〜)より。大阪の梅丸少女歌劇団(USK)で実力が認められた福来スズ子は、東京で発足することになる男女混成のレビュー劇団・梅丸楽劇団(UGD)に参加することになります。
この梅丸楽劇団は、ヒロインのモデルである笠置シヅ子が上京するきっかけとなった戦前の実在の劇団・松竹楽劇団(SGD)がモデルになっています。
【ブギウギ】東京で旗揚げ 男女混成劇団・梅丸楽劇団(UGD)
1938年(昭和13年)4月。青年演出家の松永大星(新納慎也)からスカウトを受けた福来スズ子(趣里)と秋山美月(伊原六花)は、梅丸が東京で立ち上げることになる男女混成のレビュー劇団・梅丸楽劇団(UGD)に参加することになります。
家族や友人らに見送られて上京したスズ子。さっそく本拠地となる日帝劇場に顔を出したスズ子は、そこで音楽監督を務める作曲家の羽鳥善一(草彅剛)、振り付け担当兼トップダンサーの中山史郎(小栗基裕)、バンドマスターでトランペット奏者の一井(陰山泰)らと出会います。
特にジャズが得意とする作曲家・羽鳥善一との出会いは、スズ子の運命を大きく変えていくものとなりそうです。
スズ子の歌手としての才能を一発で見抜いた羽鳥は、翌日からスズ子とのマンツーマンでのレッスンを開始。羽鳥は「ジャズは楽しくなくちゃ」という独特の指導法を展開し、スズ子の眠っていた才能を開花させていきます。
一方の秋山美月も、ダンサーの中山と組んで新たなダンスの可能性を体現していきます。松竹楽劇団の旗揚げ公演ではスズ子が「ラッパと娘」を高らかに披露すると、秋山美月も得意のタップダンスを踊って拍手喝采。USKの二人が東京でもその実力を見せ、松竹楽劇団の運営も軌道に乗って行きそうです。
この梅丸楽劇団時代にはスズ子、秋山美月がそれぞれある男性に恋心を抱いていきますので、そちらの展開も楽しみです。
【史実】モデルは松竹楽劇団(SGD) 笠置シヅ子が大阪から参加
「ブギウギ」に登場する梅丸楽劇団(UGD)は、笠置シヅ子(「ブギウギ」福来スズ子のモデル)が旗揚げに参加した東京の男女混成レビュー団・松竹楽劇団(SGD)がモデルになっています。
1927年(昭和2年)に小学校を卒業した後に大阪の松竹楽劇部(現在のOSK日本歌劇団)に入団し、キャリアをスタートさせていた笠置シヅ子。
やがてその活躍が松竹側の目に留まると、同僚の秋月恵美子(「ブギウギ」秋山美月のモデル)とともに、松竹が新たに東京で立ち上げる男女混成のレビュー劇団・松竹楽劇団(SGD)にスカウトされています。
【史実】師匠・服部良一と出会い「スウィングの女王」として開花
1938年(昭和13年)、松竹はそれまでのような少女歌劇ではなく、男性も参加する大人向けのレビュー劇団を創設したいと考え、松竹楽劇団を立ち上げています。
松竹が経営権を取得していた東京の帝国劇場を本拠とし、松竹の東西レビュー団から団員を選抜する形で誕生した松竹楽劇団。一足先にライバルの東宝が設立した日劇ダンシングチームを模倣したともされます。
松竹はこの新劇団に莫大な資金を投入し、演出家、指揮者、ダンサーなどトップクラスの人材を招聘しています。
その中には三菱財閥創立者の息子で美男子として注目を集めていた構成・演出担当の益田貞信(「ブギウギ」松永大星のモデル)、副指揮者として参加したコロムビア専属の作曲家・服部良一(「ブギウギ」羽鳥善一のモデル)、タップダンスの名手として知られた中川三郎(「ブギウギ」中山史郎のモデル)ら錚々たるメンバーが含まれています。
この松竹楽劇団に参加したことで、笠置シヅ子は長年に渡る「師匠」となる作曲家・服部良一と出会い、歌手・笠置シヅ子としての大きな転換点を迎えています。
笠置シヅ子は師弟関係となった服部良一からジャズの薫陶を受けると、またたく間に「スウィングの女王」として才能が開花。松竹楽劇団の旗揚げからわずか一年足らずで、マスコミが大注目する歌姫に成長しています。
笠置シヅ子は松竹楽劇部(途中で大阪松竹少女歌劇団=OSSKに改称)時代には娘役でありながら、「お姫様」的な役柄が向いていませんでした。しかし、男女混成かつ大人向けの演目を目指した松竹楽劇団は、男役や娘役といった枠にハマらない笠置シヅ子の個性と魅力を存分に発揮できる場所になったようです。
笠置シヅ子にとって松竹楽劇団との出会いは大きな幸運となりましたが、後述のように松竹楽劇団は発足からわずか3年で解散に至ってしまいます。
【史実】何かと目立つシヅ子 「敵性音楽」として糾弾のターゲットに
やがて日中戦争に端を発し戦時色が強まり、警察当局の取締りが強化されていくと、笠置シヅ子のド派手なメイクと激しい身振りによるジャズパフォーマンスは「敵性音楽」とレッテルを貼られ、持ち前のパフォーマンスに厳しい制限が課されていきます。
※戦時中は多くの「敵性芸術」が警察当局から目をつけられましたが、笠置シヅ子は大きな声とド派手なメイク、激しい踊りにより何かと目立つ存在であり、特に当局から厳しく糾弾される存在だったそうです。
笠置シヅ子は1939年(昭和14年)に劇場への出演を禁じられると、1941年(昭和16年)には厳しい締め付けの末に松竹楽劇団が解散してしまいます。
その後、笠置シヅ子は「笠置シズ子とその楽団」を結成すると、規制が厳しい東京を離れて全国各地で慰問活動を展開。苦しい戦争の時代を過ごすことになります。