NHK連続テレビ小説「ブギウギ」第3週の週タイトル(サブタイトル)は「桃色争議や!」。
スズ子が所属する梅丸少女歌劇団(USK)で劇団員や社員の待遇改善をめぐるストライキが発生し、山寺に立てこもるという騒動「桃色争議」が発生することになります。
この「桃色争議」はUSKのモデルである松竹楽劇部で実際に発生した女子劇団員たちのストライキ「桃色争議」がモデルになっています。
【ブギウギ】解雇と賃金減額通知 大和礼子を中心に抗議のストライキ
1933年(昭和8年)。梅丸少女歌劇団(USK)は関西の人気劇団に成長し、福来スズ子(趣里)、リリー白川(清水くるみ)、桜庭和希(片山友希)は劇団の中心として活躍するようになっていました。
そんな中、不況のあおりを受けた親会社の梅丸が突然USKの楽団員の一部を解雇し、さらに劇団員や社員の賃金をカットすると宣告。経済的に苦しい生活をしている桜庭らが林部長に退団を申し入れることになります。
これに声を上げたのが、トップスターの大和礼子(蒼井優)でした。会社の方針に納得がいかない若手団員たちが大和のもとに結束すると、大和は社長の大熊(升毅)に嘆願書を提出。大和は要求の実現のためにスズ子ら後輩団員たちにストライキを呼びかけます。
「お客様と会社を裏切ることは絶対に許さへん」としてストライキに反対の立場をとる盟友・橘アオイ(翼和希)と対立していく大和。ストライキを先導することで大和自身の立場も危うくなると心配する橘アオイの声をよそに、ついに大和はストライキを決行。スズ子ら後輩たちとともに山寺に立てこもり、徹底抗戦を展開することになります。
新聞社などマスコミたちは若き女子劇団員たちが起こしたこの騒動を「桃色争議」と囃し立て、世間の大きな注目が集まっていきます。
【史実】東京の松竹少女歌劇部、大阪の松竹楽劇部で発生した「桃色争議」
発端は東京の松竹少女歌劇部の抗議活動
「ブギウギ」で描かれる女子劇団員たちの闘争「桃色争議」は、USKのモデルである松竹楽劇部(現在のOSK日本歌劇団)ならびに姉妹劇団だった東京の松竹少女歌劇部(SSK)で発生した労働争議「桃色争議」がモデルになっています。
一連の争議の発端は、1933年(昭和8年)6月に松竹楽劇部の後発の姉妹劇団である東京の松竹少女歌劇部で、一部楽士の解雇ならびに全劇団員の賃金削減が通告されたことでした。
この通告に不満を持った松竹少女歌劇部の団員たちは、新聞記者たちを集めて「絶対反対」の意志を表明し待遇の改善を要求。
18歳の男役トップスター・水の江瀧子を争議委員長として抗議活動とストライキを展開すると、水の江瀧子に対する解雇通知により劇団員たちの態度は硬化。ついに争議団は神奈川県の湯河原温泉郷の大旅館に立てこもってしまいます。
マスコミたちはレビューガールたちの闘争を「桃色争議」と面白おかしく書きたて、争議委員長となった水の江瀧子は「花の委員長」と騒がれるなど、世間の注目を集めています。
大阪の松竹楽劇部にも飛び火 高野山に立てこもる
▼山深い天空の宗教都市 高野山にある世界遺産・金剛三昧院。松竹楽劇部の争議団はここに立てこもり、「トラスト反対」などの大弾幕を広げて演説をぶちあげ、参詣客たちの度肝を抜いたとか。
この騒動は、笠置シヅ子(「ブギウギ」福来スズ子のモデル)も所属していた大阪の松竹楽劇部(「ブギウギ」USKのモデル)にも飛び火しています。
東京の騒動勃発から5日後、松竹楽劇部の団員は待遇条件の改善を求める嘆願書を松竹に提出しますが、交渉が決裂すると娘役トップスターだった飛鳥明子(「ブギウギ」大和礼子のモデル)を争議委員長としてストライキを決行。公演が中止になっています。
飛鳥明子をリーダーとし、後に同劇団のスターとなる若手・三笠静子(後の笠置シヅ子。当時18歳)、美鈴あさ子、秋月恵美子、芦原千津子らを含む70人あまりの争議団が、会社側の切り崩し工作に対抗して和歌山・高野山の金剛峯寺(金剛三昧院)に立てこもっています(10日あまりの籠城)。
結局この一連の騒動「桃色争議」は、若き劇団員たちの熱き思いに世論が味方したこともあり、週休制の確保や最低賃金の設定などを勝ち取り、東京、大阪とも劇団員側に有利な条件で手打ちが行われています。
※東京の松竹少女歌劇部では、水の江瀧子らが突きつけた「26ヶ条の要求」(賃金、楽屋、弁当、トイレの改善ほか)がほぼ認められています。争議後に同劇団は松竹本社直轄の松竹少女歌劇団(SSKD)に改組され、松竹少女歌劇学校も創設されるなど組織改革も実現しています。
こうして争議としては勝利を収めた劇団員たちでしたが、この騒動の責任を取る形で大阪の争議委員長・飛鳥明子は退団。東京の争議委員長・水の江瀧子には謹慎処分が下っています。
「桃色争議」の余波もあり、松竹楽劇部は一時的に低迷期を迎えることになります。
こうした空気を打破すべく、「桃色争議」の翌年に松竹楽劇部は名称を大阪松竹少女歌劇団(略称・OSSK)に改称。トップスターだった飛鳥明子の抜けた穴は大きかったようですが、次世代のスターとなる柏晴江、美鈴あさ子、三笠静子らが台頭し、新時代へと突入しています。