「ブギウギ」村山興業東京支社長・坂口(メッセンジャー黒田) モデルは吉本せいの弟・林弘高か

※本ページのリンクには広告が含まれています。

NHK連続テレビ小説「ブギウギ」で黒田有(メッセンジャー黒田)が演じる村山興業東京支社長・坂口の人物像についてまとめます。

この坂口というキャラクターは吉本興業創業者・吉本せいの実弟で東京支社長、吉本興業社長などを務めた林弘高(はやし・ひろたか)がモデルになっていると思われます。

スポンサーリンク

目次

【ブギウギ】村山興業の東京支社長・坂口 愛助とスズ子の橋渡し役に?

巡業先の愛知で、大阪随一の興行会社である村山興業の御曹司・村山愛助(水上恒司)と出会ったスズ子(趣里)。当初は10歳年下の大学生である愛助に対し特別な感情を持たなかったスズ子ですが、いつしか二人は熱烈な恋に落ちていきます。

しかし、二人の恋には大きな障壁がありました。愛助の母で村山興業の社長である女傑・村山トミ(小雪)が二人の交際に猛反対しており、村山興業側が二人の恋仲を引き裂こうと躍起になっていくのです。

メッセンジャー黒田(黒田有)が演じる村山興業東京支社長・坂口は、トミからの指令を受けて「福来スズ子とその楽団」のマネージャー・五木(村上新悟)にこっそりと接触するなど、スズ子と愛助の離間工作を先導していくことになりそうです。

陰で怪しげな動きを見せる坂口ですが、根っからの悪人というわけではなさそうです。

やがて村山興業側にスズ子と愛助の真剣な気持ちが理解され始めると、坂口は二人とトミとの橋渡し役、トミからの使者のような役割を果たしていきます。

坂口は二人が暮らすために東京郊外の新居を手配してくれるなど、スズ子と愛助のことを見守り、サポートをしてくれる存在になりそうです。

【史実モデル】吉本せいの弟・林弘高

メッセンジャー黒田が演じる東京支社長・坂口は、吉本興業創業者・吉本せいの実弟で同社の東京支社長、後に吉本興業社長などを務めた林弘高(はやし・ひろたか)がモデルになっていると考えられます。

林弘高は、中央大学法学部を卒業した後に社会民衆党の機関紙の編集に携わると、姉夫婦(吉本吉兵衛・せい)が創業していた吉本興業の東京支社長(※)を任されています(※東京吉本の社長。大阪吉本は兄の林正之助が率いた)。

戦後に東京支社が大阪の吉本本社から分離独立して吉本株式会社となると、林弘高は同社の社長に就任。「浅草花月」「横浜花月」など首都圏で数多くの劇場、映画館を経営したほか、現在の東映の前身の一つである太泉映画を設立して社長に就任。映画製作に携わるとともに、マーカス・ショーの日本公演を成功させるなど名興行師、名プロデューサーとして広く知られた人物でした。

▼2017年の朝ドラ「わろてんか」のヒロイン・てんは、吉本興業創業者・吉本せいがモデル。「わろてんか」で高橋一生が演じた青年実業家の伊能栞が、そのキャラクター設定などから吉本せいの実弟・林弘高と阪急東宝グループの創業者・小林一三を掛け合わせて創作された人物ではないかとする説があります。

「ブギウギ」登場人物史実モデル「わろてんか」登場人物
村山興業社長・村山トミ(小雪)吉本興業創業者・吉本せい北村笑店創業者・北村てん(葵わかな)
村山トミの息子・村山愛助(水上恒司)吉本せい次男・吉本頴右北村てんの長男・北村隼也(成田凌)
村山興業東京支社長・坂口(黒田有)吉本興業東京支社長・林弘高??伊能商会社長・伊能栞(高橋一生)
愛助の恋人、歌手・福来スズ子(趣里)頴右の恋人、歌手・笠置シズ子??隼也の恋人、銀行頭取の長女・加納つばき(水上京香)

【史実モデル】吉本頴右と笠置シズ子の世話をした林弘高

戦時中の1943年に出会い、熱烈な恋に落ちていった歌手の笠置シズ子と吉本興業の御曹司・吉本頴右。頴右の叔父に当たる吉本興業東京支社長・林弘高は、そんな二人に目をかけ世話をした人物として知られます。

当時のシズ子は東京・三軒茶屋の借家に住んでいましたが、京都に巡業中だった1945年5月、東京大空襲により自宅を失っています。この空襲では頴右が住んでいた市ヶ谷の吉本邸も焼失したことから、シズ子と頴右は林弘高の世話により林家の隣家であるフランス人宅(荻窪)に転がり込み、つかの間の同棲生活を送っています。

終戦後の1946年に頴右が早稲田大学を中退して林弘高の下(吉本興業東京支社)で働き始めたため、この同棲生活は半年ほどで終了しています。

頴右の母・吉本せいは二人の交際と結婚に反対したとも伝わりますが、シズ子の妊娠発覚後には林弘高がせいと頴右・シズ子との間の橋渡しとなったこともあり、せいの態度も軟化していったようです。

シズ子は芸能活動を引退して頴右と結婚することを決めていたようですが、1947年に頴右が持病の結核により急逝。シズ子はその数日後に悲しみの中で頴右との子・エイ子を出産しています。

林弘高はエイ子の命名書を書いたとされるほか、シングルマザーとなってしまったシズ子を心配しエイ子を一時的に預かろうかと持ちかけるなど、頴右の死後もシズ子に目をかけていたようです。

スポンサーリンク

スポンサーリンク

シェアお願いします
URLをコピーする
URLをコピーしました!
目次
閉じる