朝ドラ「花子とアン」ヒロインモデル・村岡花子と安東はな 二人の人生の違う点 

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NHK連続テレビ小説「花子とアン」は、実在の翻訳家・児童文学者である村岡花子(1893年-1968年)の人生をモデルにしてフィクションとしてドラマが創作されています。

ヒロインの安東はな(吉高由里子)のこれまでの人生は大まかに言えば実在の村岡花子の人生をなぞっていますが、比べてみると違いも目立ちます。この記事でははなが就職して社会に出るまでの、村岡花子との生い立ちや通学歴の違いをまとめてみました。

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目次

4人兄弟、甲府で生まれ育ったはな

ドラマ「花子とアン」の安東はなは、甲府で四人兄弟の長女として生まれ育ちます。まずは地元の阿母尋常小学校に入学。十歳の時に父の薦めで単身東京の修和女学校に給費生として編入しています。

父は奔放な生活を送る行商人、安東家は貧しい小作農家であり、はなは家族を甲府に残したまま一人で東京へと向かいました。はなが学生として勉学をしている期間、兄・吉太郎が奉公に、妹・かよが製糸工場に働きに出て安東家の家計を支えていました。

8人兄弟、甲府で生まれ東京・品川で育った村岡花子

それに対し、「実在の村岡花子」は甲府で八人兄弟の長女として生まれました。結婚前の本名は、安中はな(あんなかはな)。

5歳の時に一家で上京し、花子は東京府品川(当時)で育っています。この上京には、奔放な父・逸平が妻の実家や親戚との揉め事を常に抱えており、それらを断ち切るためという事情がありました。上京後、父・逸平は品川で葉茶屋を営んでいたそうです。

村岡花子は品川の城南尋常小学校を卒業後、1904年に東洋英和女学校に給費生として編入しています。父がキリスト教を信仰しており、その繋がりから給費生での編入を実現させたとか。

当時、安中家の生活は極めて貧しく、八人兄弟(上から花子、千代、庄三郎、健次郎、梅子、磯夫、雪、邦久)のうち次女、三女を残して皆、養子に出されるなどして家を出ています。花子以外の兄妹が満足な教育を受けられなかったという点では、「花子とアン」のドラマと同じです。

なお、「花子とアン」に登場する長男・吉太郎(賀来賢人)、次女・かよ(黒木華)に相当する実在の兄弟は実在せず、三女・もも(土屋太鳳)は三女の安中梅子がモデルになっています。

甲府の尋常小学校代用教員となったはな

「花子とアン」の安東はなは、修和女学校を予科から高等科まで10年かけて卒業した後、山梨に帰り「阿母尋常小学校」に代用教員として採用され、働いていました。尋常小学校では国語、算数、理科、音楽などあらゆる教科を教えています。

山梨英和の英語教師になった村岡花子

一方実在の村岡花子は、東洋英和女学院を同じく10年ほどかけて卒業した後、山梨にある「山梨英和女学校」に英語教師として赴任しています。安東はなとは就職先が系列の山梨英和女学校であったこと、そして小学校の代用教員ではなく英語教師としての採用だったことなどの相違点があります。

村岡との出会いの違いは?

「花子とアン」の安東はなは、修和女学校高等科時代にアルバイト先の出版社「向学館」(修和女学校のツテで紹介された)にて、出入りしている「村岡印刷」御曹司・村岡英治と出会っています。しかし、この時には特に大きなパルピーテーション(ときめき)は起こらず、はなは卒業後山梨へと一旦帰郷、就職しています。

一方、村岡花子は26歳の時、勤めていた山梨英和の教師を辞して東京へ戻り、出版社・基督教興文協会(のちに教文館と合併)で働き始めます。ここで出会ったのが福音印刷の御曹司・村岡儆三です。当時、村岡儆三は妻子のある身でしたが、二人はすぐに激しい恋に落ち、結婚へと突き進みます。

以上のように大まかな人生の流れは似ていますが、安東はなという人物は創作された部分も多いようです。一から十まで村岡花子の自伝だと思って見ない方が良いでしょう…

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