白蓮の絶縁状と伝右衛門の反論文 新聞が伝えた「白蓮事件」の内容【花子とアン・元ネタ】

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大正10年(1921年)、世間を騒がせた柳原白蓮(歌人・白蓮=当時の本名は伊藤燁子)と年下の恋人・宮﨑龍介による恋の逃亡劇。現代で言えば「ワイドショーネタ」のように連日メディアを騒がせた「白蓮事件」は、新聞という大衆メディアを利用して燁子が夫・伊藤伝右衛門に絶縁状を叩き付けるという、前代未聞の珍事件でした。

NHK連続テレビ小説「花子とアン」でも「白蓮事件」が描かれるものと思われますので、当時の新聞がこの題材をどう報じたのか、まとめてみたいと思います。

大阪朝日新聞のスクープと、白蓮の「絶縁状」

騒ぎの発端は燁子(白蓮)失踪の三日後、大正10年(1921年)10月22日の「大阪朝日新聞」一面単独スクープでした。

「筑紫の女王 伊藤燁子 伝右衛門氏に絶縁状を送り 東京駅から突然姿を晦(くら)ませす」

そして、大阪朝日新聞の同日夕刊に掲載されたのが「燁子の絶縁状」

その文面は、愛のない結婚、伊藤家の複雑な家庭事情、伝右衛門と女中との不穏な関係など、燁子が結婚以来受けていた苦痛を暴露する内容が書かれていました。

▲大阪朝日新聞に掲載された「燁子の絶縁状」

新聞公開は龍介らが仕掛けた

燁子はこの絶縁状を伝右衛門宛に書いたのですが、文章を受け取った龍介と友人らが相談の上、状況がわかりやすいように情報が整理・加筆修正され、新聞紙面にてこの文章が発表されました。

当時、燁子はすでに龍介の子を身ごもっていました。絶縁状の新聞への公開は、姦通罪の適用を避けるために龍介らがメディアを使って「燁子の結婚生活が人権上問題が有った」と扱われるように仕向けたものでした。

文章の後半には、

「私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視す る貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます」

という、まさに「絶縁宣言」と言える文章が綴られています。この文章も、龍介らが加筆した部分のようです。

伝右衛門の反論文(大阪毎日新聞)は連載途中で中止

この「燁子の絶縁状」から3日後、同年10月25日から28日までの4日間、「大阪毎日新聞」に掲載されたのが、「絶縁状を読みて燁子に与ふ」という伊藤伝右衛門の反論文です。こちらは当初は全10回の掲載が予定されていましたが、結局4回で打ち切られています。

というのも、この「絶縁状を読みて燁子に与ふ」は伝右衛門自らが書いた文章ではなく、彼が汽車の中で口頭で話した事の経緯を、大阪毎日新聞の記者が興味本位で面白おかしく仕立て上げた文章だったのです。昨今の三面記事でもよくあるパターンです(笑)。

大阪毎日新聞としては、スクープ合戦で先を超された大阪朝日新聞に対し対抗意識も働いたのでしょう。

妻・白蓮をあげつらうかのような伝右衛門の反論文は、その内容も女々しく、粗暴で下品なものとなっています。この文章は記者の想像で書かれた部分も多く、こうした不本意な内容を人づてに知った伝右衛門が(伝右衛門は字が読めなかった)すぐに新聞社側に掲載の中止を申し入れたようです。

男気あふれる?伝右衛門の人物像

九州の炭坑王・伊藤伝右衛門は、イメージされるような「粗暴で下品」なだけの人格ではなかったと言われます。「花子とアン」の嘉納伝助も、当初は下品で粗暴な成り上がりの人物として描かれていましたが、徐々にお茶目で憎めないキャラへと変貌しています。

伝右衛門は白蓮事件を知って「白蓮に制裁を加えろ!」と息巻く炭坑の男たちを「手出しは無用!」と一喝。さらに「一度は惚れた女だから」として、伊藤一族に対しても「末代まで一言の弁明も無用」と伝えるという男気を見せています。

「燁子の絶縁状」「絶縁状を読みて燁子に与ふ」ともに本人が書いた原文ではないところに、この事件に関わる人々の思惑が見え隠れします。新聞各社のスクープ合戦にも巻き込まれ、この騒動は二人の思惑以上に世間を騒がせたようです。

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