【麒麟がくる】明智荘、明智城はどこにあった?明智荘の範囲、広さは?

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NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、主人公・明智光秀が生まれ育つ美濃・明智荘(あけちのしょう)ならびに明智城(あけちじょう)があった場所についてまとめます。

付近には「大河ドラマ館」が開設され、「麒麟がくる」の聖地となりそうです。

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目次

明智光秀の出生地には諸説あり

明智光秀の前半生については謎が多く、特に出生地に関しては、①現在の岐阜県可児市説(明智城)、②恵那市説(明知城)、③山県市説、④大垣市説(多羅城)、⑤滋賀県多賀町説など、諸説があります。

「麒麟がくる」では、①の説=岐阜県可児市瀬田長山にあったとされる明智城(明智長山城)ならびにその周囲に広がっていた荘園・明智荘(あけちのしょう)=を光秀の生誕地、故郷とする説を採用しているようです。

明智荘=現在の可児市、御嵩町付近

明智荘の範囲、明智城があった場所(可児市、御嵩町付近)を簡単な地図にまとめてみました。名古屋駅から可児駅、明智駅までは名鉄で1時間ちょっとです。

明智荘は、現在の岐阜県可児市北東部から御嵩町の西部付近にあった荘園です(その歴史は平安時代までさかのぼれます)。一帯は今も美しい田園風景が広がっており、この風景の中を光秀が駆け巡っていたのかと思うと感慨深いです。

1月23日放送のNHK「日本人のおなまえっ!」では、明智荘の地名の由来を①山間部の盆地に「開けた地」=「アケチ」とする説、それに②「一面を開墾した土地」=「アケチ」からくるという二説を紹介していました。

明智荘のおおよその範囲ですが、名鉄広見線明智駅、顔戸駅の南側一帯と考えられます。東西3km、南北2kmほどの広さでしょうか。

明智荘内の南西側(瀬田地区)の小高い「長山」には明智氏の居城だった山城・明智城址があり、その北麓には明智氏歴代の墓所であり明智光秀の巨大位牌(184cm)がある天龍寺、光秀産湯の井戸跡などがあります。

また、明智荘の範囲内だったと思われる場所にある花フェスタ記念公園には、「麒麟がくる」にあわせて開設される「大河ドラマ館(麒麟がくる ぎふ可児 大河ドラマ館)」があり、まさにこの一帯が「麒麟がくる」の物語の始まりの地、中心地であることがわかります。

明智城の始まりと終焉

▼名鉄・明智駅から南に歩いて20分〜30分。山と谷の地形を利用した明智城の城跡が見られます。山の北側ふもとには天龍寺が。

康永元年(1342年)、土岐頼兼がこの地に明智城を築城し「明智」を名乗ったことが、光秀の代まで同地で続く土岐明智氏の始まりと言われます。

明智城は尾根や谷などの自然地形を生かした山城で、築城以来200年近く明智氏の居城として栄えたとされます。

「麒麟がくる」でも描かれると思われますが、光秀の叔父・明智光安が城主(城代?)を務めていた弘治2年(1556年)に、明智氏が治めた明智城、明智荘が終焉を迎えています。

実父・斎藤道三を打ち破った斎藤高政(義龍)は、道三側についたとして明智氏も急襲。明智城が高政軍により包囲されると、籠城・防戦の末に光安らは自害しています(この時、光秀は一族の再興を光安から託され、身重だった妻・煕子、それに明智秀満=左馬助らとともに逃亡)。

そのまま明智城は陥落し、以降、城は再興されることなく朽ち果てています。

現在、明智城址は散策路、ハイキングコースとして整備されています。付近には本丸跡や曲輪、土塁などの遺構が見られるほか、本丸跡の石碑、二の丸近くの七ツ塚の碑、復元された大手門などが見られます。

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