大河ドラマ【麒麟がくる】医者・望月東庵は実在しない?明智光秀と医術との接点に

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NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、明智光秀が京の医者・望月東庵に出会う様子が描かれます。

この記事では、望月東庵の人物像、モデル人物の有無などをまとめます。

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目次

京で探し当てる「名医」望月東庵

望月東庵は、第1話からストーリーに絡んでいきます。

第1話では、明智光秀(十兵衛)が最新の武器である「鉄砲」を手に入れるために商都・堺に旅立つ姿が描かれます。

光秀は、堺行きの条件として、正室・小見の方の病気を治せる名医を連れてくることを主君・斎藤利政に提案。光秀は道三の願いを叶えるため、帰路に京へと立ち寄り、街のウワサを頼りに腕利きの医者を探します。

こうして光秀は医者・望月東庵と出会うことになるのですが、名医と名高いはずの東庵は大のバクチ好き。借金にまみれている東庵ですが、いくら金を積もうとも美濃行きを承諾しません。その時、悪党に襲われた街で火災に巻き込まれた少女を光秀が助けて…。

望月東庵は、生涯に渡り光秀を導く重要な役割を演じるとのことですが、基本的にモデル人物は存在せず、ドラマオリジナル・架空のキャラクターとのこと。つまり、東庵と光秀との劇中のエピソードも創作のものとなります。

ただし日本医学の中興の祖で、光秀のことも治療した「医聖」曲直瀬道三(まなせ・どうざん)が、どこか東庵の存在と似ているのでは?との声も出ています。

戦国の名医・曲直瀬道三

曲直瀬道三は将軍・足利義藤(後の足利義輝)、そして細川晴元、三好長慶、毛利元就、織田信長ら錚々たる武将を診療し、あの松永弾正久秀には性技指南書である「黄素妙論」を伝授するなど、エピソードに事欠かない天下の医者として知られます。

曲直瀬道三は、丹波攻めで疲弊、退却し病を患った明智光秀も治療しています(1576年・光秀49歳)。その治療は二ヶ月におよび、曲直瀬道三は針を打ち続けたとも伝わります。光秀と関わった名医といえば、一般的には曲直瀬道三の名が挙がるでしょう。

一方、望月東庵は苦しい庶民の味方であり、「お偉いさん」を診ることを好まない性格に見えます。

とはいえ、東庵ほどの名医を各地の武将が放っておくはずもなく、今後、東庵が曲直瀬道三のように大物武将たちと関わる展開があるようです。莫大な借金を持つ東庵は、自らの医術を武器に大名と交渉して金を引き出そうとするなど、戦国の世をたくましく生きていきます。そして、各国の情報を掴んでは他国へと届ける「諜報員」のような役割も果たしそうです。

以下、明智光秀と医術との関わりなどを少し掘り下げます。

▼田代三喜・永田徳本と並び、戦国時代の「医聖」と呼ばれる曲直瀬道三。画像はWikipediaから転載。パブリック・ドメイン。
 

医者だった?明智光秀の前半生

明智光秀の前半生は謎に包まれており、「麒麟がくる」の前半のストーリーも創作の部分が多くなります。

2020年1月8日に放送されたNHK「歴史秘話ヒストリア(あらためて知りたい!明智光秀)」では、光秀が信長に仕える前に医者として生計を立てていた可能性に言及しています。

この説は、最近熊本で見つかった「針薬方(しんやくほう)」という当時の医術書が根拠。「針薬方」は、39歳だった光秀が近江・高島の田中城に籠城していた際に足利義昭の側近に口伝した医術知識をまとめたものとされます。野戦で受けた傷の治し方や出産の際の知識などが詳細に記されています。

これをもって光秀が医者だったと断言していいのかは賛否あると思いますが、光秀が少なからず当時の医術の知識に精通していた可能性が考えられます。そして、「針薬方」など田中城での活躍が足利義昭に届き、光秀が義昭に仕えるようになったともされます。

光秀と医術の関係性も描くかも?

「麒麟がくる」で「光秀=医者だった説」を採用するかはわかりませんが、京で出会った望月東庵、そして弟子の駒を通して、少なからず光秀が医術の世界や人助けに興味を持ち、医術により救われる人々と触れ合う展開がありそうです。

あくまで個人的な予想ですが、実際に光秀と接点があった曲直瀬道三を実名で登場させるよりも、あえて望月東庵という架空のキャラクターを創作することで、「歴史の歪曲」にならず自由な形で光秀と医術(そして医術を通して平和な世の中を創ろうとする人々)との関わりを描こうとしているのではないかと思います。

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