【朝ドラ・まんぷく】立花萬平モデル 安藤百福が手がけた数々の事業とは 失敗と挫折の歴史

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NHK連続テレビ小説「まんぷく」では、ヒロインの夫・立花萬平(長谷川博己)が次々に新しい事業を興しては成功と失敗を繰り返し、ヒロインが翻弄される様子が描かれていきます。

この記事では、立花萬平のモデル人物である日清食品創業者・安藤百福氏が「チキンラーメン」の開発にたどり着くまでに経た七転び八起き、波乱万丈の「事業家人生」をまとめます。

「まんぷく」の夫・立花萬平はどういう人?

劇中の立花萬平は早くに両親を亡くし、各地を転々としながら育っています。幼い頃から抜群の行動力と発想力を見せていた萬平は25歳で会社を立ち上げると、福子(安藤サクラ)と運命的な出会いを果たし結婚。

「世のため人のため」に事業に邁進する萬平は、幻灯機やフードプロセッサー、航空機エンジン部品の製造、製塩業、栄養食品開発、金融業など次々に新しい事業に携わっては成功と失敗、挫折を繰り返し、ジェットコースターのような起業家人生を送ることになります。

やがて無一文となった47歳の春に、萬平は世界初の「インスタントラーメン」の開発に乗り出すことになり…。

モデル・安藤百福氏の生い立ち 台湾生まれ

立花萬平のモデル人物である安藤百福氏は、1910年(明治42年)に日本の統治下にあった台湾で生まれています。早くに両親を亡くし、繊維や織物を扱う呉服屋(繊維問屋)を営んでいた祖父母のもとで育てられています。

幼い頃から商人たちが働く姿を身近に感じながら育ち、計算や数字に対し大きな興味を示していたという百福氏。学校を卒業するとすぐに祖父の仕事を手伝うようになり(知人の紹介により一時期図書館の司書として働いていますが、性に合わず二年で退職)、持ち前の独立心もあり22歳で起業を決意しています。

最初の会社は「東洋莫大小(メリヤス)」@台北

百福氏が最初に選んだ業種は、祖父の業種に近く、かつ祖父の商いの邪魔にならないであろう成長産業だった「メリヤス」(錦糸または絹糸などで、機械を用いてよく伸縮するように編んだもの)でした。

1932年(昭和7年)、百福氏は資本家だった父の遺産を創業資金にあて、台北市永楽町に「東洋莫大小(トウヨウメリヤス)」を創業。日本内地から製品を仕入れて台湾で売りさばくこの事業は大当たりをし、百福氏は事業家として最初の大成功を収めています。

大阪で「日東商会」設立 ひまし油製造も

翌年、内地からの仕入れが間に合わないほど業務が盛況となると、大阪・唐物町で「日東商会」を設立。日本国内のメリヤスメーカーと取引を行う問屋業務などを手がけ、本土で事業を拡大させていきます。

すでに社員十数人を束ねていたこの時期の百福氏ですが、立命館大学専門学部経済科(夜間)に通いはじめ、学問を修めようとする行動力も見せています。また、トウゴマを栽培して「ひまし油」を製造し、ヒマの葉は養蚕業に回すというエコなビジネスを展開しましたが、こちらは戦局の悪化により中止せざるを得なくなっています。

戦時下でも旺盛な事業欲

太平洋戦争が開戦すると主力業務だった繊維業は下火となりますが、百福氏の旺盛な事業欲は衰えませんでした。

軍需工場における需要を見込み「幻灯機」の製造を手がけたほか、疎開先の兵庫県・上郡では山林を購入し、燃料不足を見込んで「炭焼き」ビジネスを展開。また、下請けとして軍用機用発動機の部品を製造する軍需工場を共同経営するなど、重苦しい時代に則したビジネスを次々に立ち上げています。

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「濡れ衣」で憲兵から拷問を受ける

戦時下でも積極的に事業を展開していた百福氏ですが、思わぬ「落とし穴」にはまってしまいます。

前述の軍需工場において、国から支給された資材が何者かによって横流しされていたという事実が発覚。百福氏はこの件を相談しに憲兵隊のもとに行きますが、なぜか自身が横流しを疑われてしまい、激しい尋問、理不尽な拷問を受けることになります(※後に憲兵隊の中に横流しをした者の親戚がいたことが判明)。

この体験により百福氏は内臓を痛めて持病持ちとなり、ぶち込まれていた留置場で食べざるを得なかった粗末な食が、後に百福氏をインスタントラーメン開発へと駆り立てる原動力の一つになっています。

戦後は一から再スタート 「製塩所」開設などで若者を雇用

終戦を疎開先で迎えた三十代半ばの百福氏。大阪に戻ってみると所有していた事務所や工場は空襲により焼け落ちており、これまで育ててきた事業のすべてを失ってしまいます。※ただし、焼失した建物の保険金が入ったとか。

百福氏は泉北郡大津町(現在の泉大津市)に取り急ぎ家を建てると、近所の海沿いにあった旧造兵廠跡地の払い下げを受けて、敷地内に残されていた鉄板を用いて製塩業を始めています。また、漁船を購入して沖合に出て、イワシ漁も行なっています。

これらは決して大きな利潤が出る事業ではありませんでしたが、「奨学金」のような形で現金が支給され、仕事がなかった若者たちの生活を支えました。

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一方で、名古屋では自動車や鉄道に携わる技術者を育てる「中華交通技術専門学院」を設立。前述の製塩業、イワシ漁とともに、戦後の混乱により路頭に迷う若者を集め、若者の未来を支援する社会事業を推し進めています。

1948年(昭和23年)には現在の「日清食品」の前身となる「中交総社(翌年に「サンシー殖産」に商号変更)」を設立。

また、戦中戦後の食糧難、栄養不足を目の当たりにしてきた経験から泉大津に「国民栄養化学研究所」を立ち上げ、栄養食品の開発をスタートさせています。

再びの「落とし穴」 脱税容疑で収監

泉大津の製塩所には多くの若者が集まり、宿舎では夜な夜な酒を飲み語りあう、楽しい時間が流れていました。

しかし、こうした賑やかな生活ぶりが警察の目に留まるようになると監視の目が強まり、百福氏は若者たちに与えていた「奨学金」の件で脱税容疑をかけられ、巣鴨拘置所に収監されてしまいます。一方的な裁判により下された判決は、「四年の重労働」。百福氏は大阪財務局から財産が差し押さえられ、不動産などもすべて没収されてしまいます。

当初は処分の取り消しを求めて裁判を起こした百福氏でしたが(これに対しGHQ側は「訴えを取り下げれば釈放する」という取引を持ちかけた)、結局二年の後に家族の生活を案じ、この訴えを取り下げ、釈放されています。

信用組合破綻で無一文に 崖っぷちでラーメン開発に着手

収監中に製塩工場などの事業を整理し、またしても事業家として振り出しに戻ってしまった百福氏は、大阪に新しく設立された信用組合(金融機関)の理事長への就任を懇願され、断りきれずにこれを引き受けてしまいます。

専門家不在の素人集団だった信用組合はやがて破綻。百福氏は形だけの理事長だったとはいえ、社会的な責任を問われるとともに、財産の多くを失ってしまいます。

いよいよ無一文になってしまった百福氏。大阪・池田市の自宅に引きこもると気持ちを前向きに切り替え、自宅の庭に小さな小屋を建てて研究所とし、ついにまだ見ぬ「即席ラーメン」の開発に着手することになるのです。この時、百福氏は47歳になっていました。

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