NHK連続テレビ小説「エール」10月2日放送(第80回)では、主人公・古山裕一のもとに召集令状が届くシーンが登場しました。
古山裕一のモデルとなっている作曲家・古関裕而は戦時中に従軍や慰問団への参加をたびたび経験したほか、終戦間際には召集令状を受けて横須賀の海兵団に入隊しています。
突然の召集令状に驚く裕一
「エール」第80回のラストシーンでは、突然届いた召集令状に裕一が驚きの表情を見せています(昭和18年)。これまで戦争に関する楽曲をたくさん作ってきた裕一でしたが、自分が戦地に向かうことなど考えてもいませんでした。
令状を受け取り複雑な思いを抱くことになる裕一ですが、ある日、海軍航空隊の予科練習生を主題とする映画の曲作りを依頼されることになります。こうして名曲「若鷲の歌」が完成するのですが、果たして裕一の召集は実行されるのか、そして出征は…。
海外への従軍、慰問団にたびたび参加した古関裕而
「エール」ではほぼ描かれていませんが、裕一のモデル人物である古関裕而は、戦争の時代に入るとたびたび海外への旅、慰問、従軍を経験しています。
古関は、昭和12年(1937年)に妻・金子の兄とその家族を訪ねて、金子とともに満州への私的な船旅に出たほか、昭和13年(1938年)には中国・漢口(現在の武漢市あたり)方面に従軍部隊として参加。
昭和17年(1942年)には日本放送協会(NHK)が派遣した「南方慰問団」に参加し、ビルマ、マレー半島、中国雲南奥地などで日本の兵士たちを慰問しています。
また、いよいよ戦局が悪化していた昭和19年(1944年)には、インパール作戦における「特別報道班員」の一人として再びビルマを訪れています。
▼古関裕而の従軍体験、慰問団参加体験は以下の記事にまとめています。
・【エール】裕一、音楽慰問のため激戦地・ビルマへ モデル・古関裕而の従軍、慰問団体験まとめ
▼古関裕而に関する本はさまざま出版されていますが、本人による自伝「鐘よ鳴り響け」がオススメです。
▼新書「古関裕而の昭和史」にも、古関裕而の従軍体験などが詳しく書かれています。
古関裕而に召集令状が届く
昭和20年(1945年)には、ついに古関裕而のもとに召集令状が届いています。内容は「3月15日に横須賀海兵団に入団せよ」というものでした。
満20歳の時の徴兵検査でギリギリ合格の「丙種」とされていた古関でしたが、令状が届いた昭和20年当時の古関はすでに35歳になっており、突然の召集の報せは青天の霹靂だったようです。
当時、古関は海軍省からは作曲を依頼されていた状態であり、これは何かの間違いではないかと思い、海軍省人事局に問い合わせを入れています。
手違いだった令状 一ヶ月の海兵団体験
その結果、どうやら召集令状は故郷・福島の連隊区司令部が本名である「古関勇治」を著名作曲家の「古関裕而」その人と知らずに発行してしまったという、手違いだったことが判明。
すぐに令状を取り消すことは出来ないため、作曲のためにもいい機会だからと言われ、古関は当初のスケジュール通りに3月に横須賀海兵団に入団をしたそうです。人事局からは「(入団後)間もなく召集を解除する」という約束がなされており、ほぼ形だけの入団だったわけです。※入団直前の3月10日には東京大空襲が発生するなど東京は危険な状態になっており、古関は妻と娘を疎開させた上で召集に応じたそうです。
古関が配属されたのは、芸術家や学者などの文化人ばかりが集められた事務担当部署「第百分隊」。結局古関が兵士として戦地に赴くことはありませんでしたが、思ったよりも長い、一ヶ月あまりの海兵団生活を体験しています。