【エール】長崎の医師・永田武(吉岡秀隆) モデルは永井隆博士

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NHK連続テレビ小説「エール」で、朝ドラ初出演となる俳優の吉岡秀隆が演じる長崎の医師・永田武の人物像をまとめます。

永田武は、被爆者で随筆家、医学博士だった永井隆がモデルとなっています。

長崎の医師・永田武

主人公・古山裕一(窪田正孝)は、戦時中に軍歌や戦時歌謡を作曲したことで戦後に大きな後悔の念を抱えることになります。

戦後、戦争で傷ついた人々を癒し勇気づけるための曲作りに邁進することになる裕一。そんな裕一と出会うのが、原爆投下直後の長崎で被爆者の治療を行っていた医師・永田武(吉岡秀隆)です。

裕一は、長崎の原爆被害の様子を綴った永田の著書「長崎の鐘」をキッカケに永田と出会います。平和への思いを込めて作られ、戦後の裕一の代表曲のひとつとなる「長崎の鐘」は、二人の出会いにより誕生することになるのです。

▼ドラマ「北の国から」で国民的子役となり、「Dr.コトー診療所」「ラストソング」「ALWAYS 三丁目の夕日」「小さいおうち」などの名作に多数出演し続ける吉岡秀隆(50)。意外にもNHK朝ドラは初出演とのこと。

命を削って被爆者を治療した永井隆博士がモデル

吉岡秀隆が演じる医師・永田武は、実在の随筆家で医学博士の永井隆(1908-1951)がモデルになっています。

永井隆は、島根県松江市で医師だった父・寛の長男として生まれています。長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)を卒業すると、同大学の物理的療法科(レントゲン科)で放射線医学を研究する道に進んでいます。

戦時中には結核のX線検診に従事しますが、折からのフィルム不足で透視による診断を続けたため終戦直前に白血病と診断され、余命三年の宣告を受けています。

長崎の原爆投下で被爆 愛妻を亡くす

昭和20年(1945年)8月9日に長崎に原子爆弾が投下されると、永井は爆心地から700メートルにあった長崎医大の診察室で被爆。自身も右側頭動脈切断という重傷を負いながら、現地で被爆者の救護活動にあたっています。原爆投下から三日後にようやく自宅に帰ると、愛妻・緑は台所跡で骨片だけの姿になっていたそうです。

永井はその後病床に伏しますが、一時昏睡状態に陥るなど命を削りながら続けた救護活動の様子、それに長崎市中の凄惨な被爆状況などを克明に記録した随筆「長崎の鐘」「原子野録音」「この子を残して」などを記しています。※昭和26年(1951年)に白血病による心不全で死去。

藤山一郎が歌った鎮魂歌「長崎の鐘」

永井の死の二年前である昭和24年(1949年)4月、作詞・サトウハチロー、作曲・古関裕而、歌・藤山一郎によるレコード「長崎の鐘」がリリースされています。永井と親交があった精神科医・式場隆三郎の強い要請を受けて、レコード化が企画されたそうです。

永井の「長崎の鐘」「この子を残して」などの随筆から着想を得たというサトウハチローの詞を読んだ古関は、「これは単に長崎だけではなく、この戦災の受難者全体に通じる歌だ」と直感。古関は長調への転調などを用いて、打ちひしがれた人々の再起を願う力強いメロディーを作り上げています。

古関裕而と永井隆の交流

完成した鎮魂歌「長崎の鐘」をラジオ放送で聞いた永井隆は、その出来栄えに感銘を受け、すぐに古関裕而に手紙をしたためています。

「唯今、藤山さんの歌う、長崎の鐘の放送を聞きました。私たち浦上原子野の住人の心にぴったりした曲であり、ほんとうになぐさめ、はげまし明るい希望を与えていただけました。作曲については、さぞご苦労がありましたでしょう。この曲によって全国の戦災荒野に生きよう伸びようと頑張っている同胞が、新しい元気をもって立ち上がりますよう祈ります 長崎 永井隆 1949年4月25日」

その後も二人の手紙での交流は続き、終戦記念日には敬虔なカソリック信者だった永井隆がマリア像を描いた奉書の墨絵、木綿糸で編まれたロザリオなどが永井作の短歌とともに古関に送られたそうです。

古関はお礼を贈るとともに、「長崎に行ったら伺います」とする約束を交わしていましたが、ついに生前に古関と永井が会うことはありませんでした。

永井の死の翌年には、熊本の放送局の記念式典に招待された古関裕而、金子夫妻が帰路に長崎に立ち寄り、永井が晩年を過ごした家「如己堂」を訪ねています。そこで永井の息子・誠一氏、娘・茅野氏と会い、金子が二人の力強い成長を願う言葉とともに万年筆を贈ったそうです。

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