【エール】「長崎の鐘」古関裕而の代表曲 藤山一郎が高熱をおして歌う

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NHK連続テレビ小説劇中に登場する曲「長崎の鐘」についてまとめます。

「長崎の鐘」は、古関裕而作曲の実在する楽曲です。

医師・永田武との出会い

戦時中に軍歌や戦時歌謡の作曲を行い、結果的に多くの兵士を戦地に送り出してしまった裕一(窪田正孝)。戦後はその後悔を胸に、平和への祈り、戦争で傷ついた人々への励ましの曲を多数作曲していきます。

原爆投下直後の長崎で懸命に被爆者への治療を続けた医師・永田武(吉岡秀隆)との出会いにより、裕一は自身の代表曲のひとつである鎮魂歌「長崎の鐘」を作り上げることになります。※恐らくこの「長崎の鐘」は、「丘を越えて」を歌った山藤太郎(柿澤勇人)が歌うことになると思います。

楽曲「長崎の鐘」は、永田医師が自身の被爆経験を元に綴った著書「長崎の鐘」をモチーフにした曲。朝ドラ初出演となる吉岡秀隆が演じる永田医師が、裕一の創作活動に大きな影響を与えていく重要な役割を担いそうです。

※「長崎の鐘」は、「エール」第1回(3月30日放送)でも曲名が登場しています。東京オリンピック開会式の会場で緊張しまくりだった裕一は、親兄弟を戦争で亡くした長崎出身の会場係員(萩原聖人)から「生きる希望を与えてくれたのは、先生の長崎の鐘です!」「先生の晴れ舞台ですけん、どうか会場で!(敬礼)」と励ましを受けています。

実在の医師・永井隆の著書「長崎の鐘」から作曲

名曲「長崎の鐘」(昭和24年=1949年発売)は、裕一のモデル人物となった作曲家・古関裕而の戦後の代表曲の一つ。長崎医大で放射線医学を研究していた随筆家で医学博士の永井隆(1908-1951)の随筆「長崎の鐘」などをモチーフとした曲です。

戦時中のフィルム不足の中での放射線診療の影響もあり、すでに白血病の診断、余命宣告を受けていた永井博士。

1945年8月9日の長崎への原爆投下でも被爆をし重傷を負いましたが、命を削りながら被爆者たちの救護を続けました。永井医師の懸命な救護活動の日々、当時の長崎の凄惨な様子などは彼の著書「長崎の鐘」「この子を残して」などにまとめられ、ここから着想を得た詩人のサトウハチローが「長崎の鐘」という詞を完成させています。

サトウハチローの詞を読んだ古関は、「これは単に長崎だけではなく、この戦災の受難者全体に通じる歌だ」と感じたそうです。古関は曲中で短調から長調への転調を用いるなど、打ちひしがれた人々の再起を願う力強いメロディーを作り上げています。

【エール】長崎の医師・永田武(吉岡秀隆) モデルは永井隆博士

歌は藤山一郎 高熱で悲愴感あふれる歌声に

「長崎の鐘」の歌は、「酒は涙か溜息か」「東京ラプソディ」「丘を越えて」(いずれも古賀政男作曲)などの大ヒット曲で知られる藤山一郎(「エール」では山藤太郎として登場)が担当しています。

「長崎の鐘」における藤山の格式高く悲愴感ある歌声には、ちょっとしたエピソード、逸話があります。

レコード吹き込み当日、藤山は高熱となり、とても歌える状態ではなかったそうです。とはいえ、スタジオでは藤山の歌声を期待した人々が集まり、オーケストラの準備も整っていました。

無理を承知の上で、意識朦朧で何とかマイクの前に立った藤山一郎。通常は気品高く明瞭に歌いあげる藤山ですが、この時ばかりは高熱に耐えながら悲愴感を含む歌声で、情感豊かに「長崎の鐘」を歌い上げています。

藤山は、プロ意識もあり後日取り直し(再録音)をするという約束を前提にこの日の吹き込みを了承したそうですが、いざ録音が終わると、藤山の悲愴感と熱情溢れる歌声にスタッフたちが感動。結局再録音は行わずに、この音源のままレコード化され、大ヒットを記録しています。

被爆後の病床にあった永井博士は完成した曲「長崎の鐘」を聞くと感銘を受け、サトウハチロー、古関裕而、藤山一郎に手紙を贈るとともに、「原子野に 立ち残りたる 悲しみの聖母の像に 苔つきにけり 新しき朝の光の さしそむるあれ野にひびけ 長崎の鐘」という、「新しき朝」と題する短歌を贈るなどの交流を持ったそうです。

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