NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の物語序盤で、源頼朝軍に立ちはだかる相模の有力豪族・大庭景親(おおば・かげちか)についてまとめます。
平家に尽くして源氏勢と戦う大庭景親ですが、やがて最期の時を迎えることになります。ニヒルで孤高の坂東武者・大庭景親を名優・國村隼が演じます。
平家に恩 平清盛の後ろ盾を受けて相模を束ねる強者
大庭景親(おおば・かげちか)は、相模国・大庭御厨一帯(現在の茅ヶ崎市、藤沢市一帯にあった寄進荘園)を支配した大庭氏の一族の生まれ。大庭氏は桓武平氏の血をひく坂東八平氏のひとつ・鎌倉氏の流れを汲みます。
近隣の鎌倉に拠点を置いていた源義朝(頼朝の父)が大庭御厨に侵攻して狼藉を働く(大庭御厨事件)など、大庭氏と義朝との間に幾度かのいざこざが発生した後、大庭氏は義朝と従属関係になったようです。景親は保元の乱で兄の大庭景義とともに源義朝の軍勢に参加しています。
この時の戦いは義朝軍が所属する後白河法皇方の勝利に終わりますが、続く平治の乱で景親は再び源義朝に従軍するも、義朝が敗死(この義朝の敗死により、息子の頼朝は伊豆の流人になってしまいます)。
諸説ありますが(※)、「鎌倉殿の13人」ではこの敗戦時に大庭景親が平清盛から助命され、その大きな恩から景親は平家に手厚く臣従するようになった、とする説を採用しているようです。
※そもそも「平治物語」によれば、大庭景親が源義朝に従って平治の乱に出陣したという記述がないとか。平治の乱の後に源氏が没落したことで、源義朝と遠い関係にあった大庭景親が平家と接近し、平家の後ろ盾により相模国内で強固な力を持つようになったともされます。
▼大庭景親を演じるのは、大阪市出身の66歳の名優・國村隼(くにむら・じゅん)。大河ドラマは「平清盛」(2012年)で公卿・藤原忠実役を演じて以来の出演。近年はヒール、悪役での出演も目立ちますが、今回演じる大庭景親は敵役ながらも義理堅く平家に筋を通す男。
\#鎌倉殿の13人 ギャラリー/
— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) January 15, 2022
【第2回】1月16日(日)
[総合]夜8時
[BSP・BS4K]午後6時#三谷幸喜 が贈る予測不能エンターテインメント!#國村隼 #大庭景親 pic.twitter.com/GP7OozWPUn
平家方の立場で頼朝軍と激突 石橋山の戦いで圧勝
平治の乱の後、平清盛の厚い信頼を後ろ盾として、大庭景親は相模一帯の武士団を束ねていきます。
やがて伊豆の流人だった源頼朝が打倒平家を掲げて挙兵し、緒戦で平家の息がかかった伊豆の目代・山木兼隆と目代後見の堤信遠に勝利すると、頼朝は坂東の政を自らが行うと公言します。大庭景親はこの頼朝の振る舞いに激怒。伊豆から鎌倉を目指して相模方面に東進してくるであろう頼朝軍を、追討軍の大将として迎え撃つことになります。
大庭景親は平氏方3,000余騎を集め、300余騎で東進してきた頼朝軍と石橋山(現在の神奈川県小田原市)で激突。頼朝の強力な援軍となるはずだった三浦一族の軍勢(三浦半島から西進するも、大雨のため酒匂川で足止めとなっていた)が到着する前に夜戦を仕掛け、大庭軍は圧勝を収めています。
▼石橋山は、現在の小田原市街と真鶴・湯河原方面との間にある小高い山。頼朝軍は味方の土肥実平の所領・土肥郷(現在の湯河原町)から石橋山へと北東進しています。その背後は、大庭景親と結んだ伊豆の伊東祐親の軍勢300騎が頼朝軍の退路を塞いでいました。
▼石橋山で大庭軍にボコボコにされた頼朝は、「しとどの窟」(現在の湯河原町鍛冶屋の山中)まで敗走、潜伏しています。頼朝はこの洞窟で大庭配下の追っ手・梶原景時(中村獅童)に見つかってしまいますが、なぜか景時はこれをスルー。これが縁となり後に景時は頼朝から重用されるようになった、というエピソードが残ります。景時がなぜ頼朝を見逃してくれたのかは、第7話で景時本人の口から語られます。
安房で再起する頼朝 大庭景親、追い込まれて処刑
梶原景時がなぜか見逃してくれたことで生き延びた源頼朝は、土肥実平の手配により真鶴から船で海路脱出。北条時政や三浦義村ら仲間が待つ安房(現在の千葉県南部)に逃げ延びています。
頼朝はこの安房の地で再挙し、鎌倉を目指して房総半島を進軍。途中で千葉常胤や上総広常ら坂東屈指の豪族を味方に付けると、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠ら東国の列強武士たちも続々と頼朝陣営に参陣。軍勢は数万騎に膨れ上がります。
一方の平家方は、平維盛を総大将とする頼朝追討軍が福原京(現在の兵庫県神戸市)から出立するのが遅れます。追討軍は諸国の駆武者をかき集めて膨れ上がりながら東進しますが、西国の飢饉による士気の低下や、そもそもが単なる寄せ集め集団だったことなどもあり、求心力を失った状態で源氏勢と対峙することになります。※甲斐源氏が挙兵したことも、平家方の劣勢に拍車をかけています。
結局、空中分解状態となっていた平氏方追討軍は駿河国・富士川で源氏の大軍と対峙しますが、戦わずして敗走。
1,000騎を率いて追討軍に合流しようとした大庭景親は、頼朝または甲斐源氏に行く手を阻まれ、相模国に留まった後に軍を解散し、逃亡してしまいます。
追い込まれた大庭景親はついに頼朝に降参し、上総広常に預けられますが、固瀬川=片瀬河原(現在の神奈川県藤沢市、境川)で処刑されてしまいます。
平家に多大な恩を感じ、平清盛に尽くして隆盛を誇った大庭景親でしたが、坂東武者たちの結束の前に散ってしまうのです。
※兄・大庭景義は頼朝に尽くし鎌倉幕府を支えた
かつて行動をともにした兄・大庭景義は、源頼朝の挙兵(1180年)の時点で弟の景親と袂を分かち、頼朝に従っています。後に景親が頼朝軍に敗れて囚われの身になると、景義は頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されますが、これを断って全てを頼朝の裁断に任せています。その後、景義は御家人に列し、長年鎌倉幕府に仕えて長寿を全う。兄弟で源平に別れ、まったく異なる人生を歩んだのです。