NHK連続テレビ小説「ブギウギ」でヒロインの花田鈴子(芸名・福来スズ子)が入団することになる大阪の梅丸少女歌劇団(USK)についてまとめます。
この梅丸少女歌劇団(USK)は、笠置シヅ子がキャリアをスタートさせた松竹楽劇部、大阪松竹少女歌劇団 (OSSK)がモデルになっていると考えられます。現在も人気を誇るOSK日本歌劇団の前身にあたる劇団です。
【ブギウギ】歌と踊りが大好きな鈴子 地元大阪のUSK(梅丸少女歌劇団)に入団
ヒロインの花田鈴子(澤井梨丘→趣里)は、香川生まれの大阪育ち。大阪の下町・福島の銭湯「はな湯」の看板娘として育った鈴子は、歌と踊りが大好きだったこともあり「梅丸少女歌劇団(うめまる・しょうじょ・かげきだん)=略称USK」に入団することになります。
USKは、日本随一の興行会社「梅丸」の社長・大熊熊五郎(升毅)が立ち上げた地元大阪発祥の人気少女歌劇団。
第1期生の娘役トップスター・大和礼子(蒼井優)が中心となり、早いテンポで足を高く上げるラインダンスを名物に、日舞や洋舞を取り入れた華やかなショーが展開されていきます。
鈴子はUSKで憧れの先輩である大和礼子から歌と踊りの基礎を叩き込まれ、同期の白川幸子(清水くるみ)、桜庭和希(片山友希)、後輩の秋山美月(伊原六花)らとともに成長を見せていきます。
やがて鈴子は作曲家の羽鳥善一(草彅剛)に歌の才能を見出されて上京。スウィングの女王、ブギの女王・福来スズ子として国民的スターの道を歩み始めます。
【参考】「ブギウギ」劇中に登場する人物、団体のモデル
・梅丸少女歌劇団(USK)…松竹楽劇部、大阪松竹少女歌劇団(OSSK)がモデル
・花咲少女歌劇団=宝塚少女歌劇団がモデル
・花田鈴子(福来スズ子)…亀井静子(笠置シヅ子)がモデル
・羽鳥善一…服部良一がモデル
・大和礼子…飛鳥明子がモデル
・秋山美月…秋月恵美子がモデル
・林部長…音楽部長・松本四郎がモデル
・「梅丸」社長・大熊熊五郎…「松竹」社長・白井松次郎がモデル
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【史実のモデル】松竹楽劇部に入団した笠置シヅ子
ヒロイン鈴子のモデル・笠置シヅ子は、香川生まれの大阪育ち。
幼少期から日本舞踊などを習い、両親が営んでいた銭湯の脱衣場で歌や踊りを披露するうちに近所で評判になると、小学校を卒業した1927年(昭和2年)に道頓堀の松竹楽劇部に押しかけで入団しています。
この松竹楽劇部(後に大阪松竹少女歌劇団=OSSK に改名)が、「ブギウギ」に登場する梅丸少女歌劇団(USK)のモデルと考えられます。
松竹楽劇部は後述のような変遷をたどり、現在もOSK日本歌劇団(オーエスケー・にっぽんかげきだん)としてその伝統が受け継がれています。OSK日本歌劇団は宝塚歌劇団、松竹歌劇団とともに三大少女歌劇のひとつとして今も高い人気を誇っていますね。
OSKといえば、早いテンポで高く足を上げるラインダンスが古くからの名物。また、ピンク色の傘を回しながらテーマソングである「桜咲く国」を歌うのも定番となっています。いつの頃からかしのぎを削る宝塚歌劇団とは「歌の宝塚、ダンスのOSK」と並び称されるようになっており、激戦区である関西エンタメ界を代表する人気歌劇団となっています。
※「ブギウギ」ではUSKの先輩・橘アオイ役でOSK日本歌劇団の現役男役スター・翼和希が出演。本場のパフォーマンスを魅せてくれそうです。
【参考】松竹楽劇部の名称変遷と略歴
1922年(大正11年)に発足した松竹楽劇部は、たびたび名称を変更しています。
・大阪で松竹楽劇部が誕生(1922年)
・大阪松竹少女歌劇団(略称 OSSK)に改称(1934年)
・大阪松竹歌劇団(略称 OSK)に改称(1943年)
・日本歌劇団(略称 NKD)に改称(1963年)
・OSK日本歌劇団に改称(1970年)
・近鉄グループの傘下に入る(1971年)
・近鉄から劇団解散の通達、翌年解散式(2002年、2003年)
・有志により New OSK日本歌劇団として活動再開(2004年)
・OSK日本歌劇団に改称、現在に至る(2007年〜)
OSK 誕生から戦前までの簡単な歴史
参考までに、劇団発足から笠置シズ子が在籍した戦前までを中心に、松竹楽劇部、OSSK、OSKの歴史をまとめておきます。
1922年(大正11年)、松竹楽劇部は松竹の社長・白井松次郎の発案により、宝塚少女歌劇団を模倣する形で発足しています。松竹楽劇部には宝塚少女歌劇団から舞踏家の楳茂都陸平、作曲家の原田潤、松本四郎ら実力者が招聘されており、宝塚の後発の少女歌劇団としてスタートしたわけです。
最初期は映画と映画の幕間にバレエ風の洋舞を踊るなど芸術的な演目を披露していましたが、人気は今ひとつでした。
1926年(大正15年)、「芦辺踊り」「浪花踊り」「都踊り」などを参考にした日舞スタイルの本格ショー「春のおどり」を披露したところ、これが人気に。この「春のおどり」は長年に渡りアップデート、改良が繰り返され、劇団名物の演目となっていきます。また、初期の松竹楽劇部ではトウダンスの名手・飛鳥明子(「ブギウギ」大和礼子のモデル)が人気となり、トップスターとして君臨。劇団の基礎が形作られています。
1927年(昭和2年)には笠置シヅ子(入団時の芸名は三笠静子)が松竹楽劇部に入団。
1933年(昭和8年)に劇団員らの待遇改善を求めるストライキ「桃色争議」が発生し、マスコミを巻き込んで大きな騒動になると、争議団の中心的役割を果たした飛鳥明子ら幹部団員が責任を取る形で退団。松竹楽劇部は多くのスター団員を失い、不振に陥っています。
翌年には騒動から心機一転、松竹楽劇部は大阪松竹少女歌劇団(OSSK)と改称して再出発をしています。新生OSSKは次世代のスターである柏晴江(後の柏ハルエ)、美鈴あさ子(後のアーサー美鈴)、三笠静子らが台頭して人気も復活。戦前の全盛期を迎えることになります。
三笠静子はOSSKの第一回記念公演「カイエ・ダムール」で主題歌「恋のステップ」を歌い、コロムビアとのタイアップによりレコードも発売。次第に歌が得意なコミカルな娘役として人気となり、OSSKの幹部団員の一角を占めるまでになっています。
そして1938年(昭和13年)。笠置シズ子(※1935年に三笠静子から改名)は東京の帝国劇場で旗揚げされる松竹楽劇団(SGD)に参加すると、そこで作曲家の服部良一と出会っています。笠置シズ子はこのタイミングでOSSKを離れて上京し、服部良一の歌手指導のもと、スウィングの女王、ブギの女王の道を歩んでいくことになるのです。
「ブギウギ」でも同様のタイミングで、ヒロインの福来スズ子がUSKならびに大阪を離れることになりそうです。
その後、大阪松竹少女歌劇団(OSSK)は1943年(昭和18年)に大阪松竹歌劇団(OSK)に改称。太平洋戦争の戦局が悪化する中で公演にさまざまな制限が加えられ、戦争をテーマにした演目を扱うことが増えたそうです。
この戦前の時代には若手の秋月恵美子(「ブギウギ」秋山美月のモデル)と芦原千津子の「ゴールデンペア」が人気となり、戦後に渡って活躍を続けた二人は劇団の伝説的スターになっていきます。
そして敗戦の年となる1945年(昭和20年)。第20回春のおどり 「猿飛佐助」の上演期間中だった3月14日未明に大阪大空襲があり、本拠地だった大阪劇場が焼失。OSKは奇跡的に焼け残った大阪松竹座で空襲後も公演を続け、苦しい人たちの支えとなっています。
終戦後もOSKは公演を続け、敗戦で傷ついた人々の心に光を照らし続けています。
以上、ざっと戦前を中心に松竹楽劇部、OSSK、OSKの概略をまとめました。詳細な劇団の歴史はOSK日本歌劇団のホームページに書かれていますので、ご参照ください。
同じ劇団黎明期に活躍した飛鳥明子、美鈴あさ子、笠置シズ子、秋月恵美子ら時代を代表したスターたち。不本意にも劇団を去った者、新しい道に進むために劇団を離れた者、そして劇団に残って伝説的スターになった者…。そうした青春群像劇が、朝ドラ「ブギウギ」でも描かれていきそうです。