「花子とアン」モデル・村岡花子と柳原白蓮の手紙での友情のやりとり その内容

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NHK連続テレビ小説「花子とアン」第10週(6月2日~6月7日放送)で、久しく疎遠となっていた「腹心の友」安東はな(吉高由里子)と葉山蓮子(仲間由紀恵)の友情が復活します。

安東はなと葉山蓮子の友情のモデルである村岡花子と柳原白蓮もまた、一時期疎遠になっていた時期がありましたが、手紙のやりとりによって友情が復活しています。

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目次

白蓮の結婚に納得できなかった花子

白蓮と伊藤伝右衛門との結婚を認めることが出来なかった村岡花子。白蓮が芝公園で催した学校関係者向けの披露宴にも出席しませんでした。(1911年・明治44年)

その後二人は暫く疎遠になりましたが、福岡に嫁いでから3年後に白蓮は花子に手紙を送っています。当時、花子も自身の雑記帳に以下のような白蓮を懐かしむ文章をしたためています。

「たまらなく燁さまがなつかしく あてもなく手箱の中から有りし日の御文の数々引き出しては読み入る」
(※白蓮の本名は燁子=あきこ。燁さま、花ちゃんと呼び合う関係だった)

この時期から暫くして、二人の友情は復活したようです。この空白期間の後、二人の友情はより深まったと言われます。

花子の結婚 白蓮からの祝福の手紙

花子が夫・儆三と結婚した際には、

「いつだって私の貴女への心持ちは変りはしません。」

「ずい分久しく便りをしなかったり、ひどい時は手紙を出しても返事を下さらなかったこともありましたっけ。それでも私は同じ心で貴女を見ていました」

「今は誰よりもよい方が御出来になって、それでも女同士の友情に変わりはないとあらたな心でいます。」

「貴女にお祝いの心ばかり。姉さんのような気で 黒ちりめん羽織ひとつ。他にせいぜい丸帯一本進上いたします。」

といった手紙を送り、白蓮なりの祝福の言葉を贈っています。

白蓮事件の直後にも二人は手紙のやりとりをしていた

1921年(大正10年)に世間を騒がす「白蓮事件」を起こした直後にも二人は手紙のやり取りをしています。

伊藤伝右衛門と離婚が成立した白蓮は柳原家によって監禁されてしまいます(逃亡相手・宮崎龍介と隔離するため)。兄・柳原義光からは「死ねとは言わないから出家しろ」となじられ、髪を切り落とされるなど、白蓮は辛い日々を送っています。

白蓮は九州出奔3日後、花子に

「貴女の手紙はどんなに私を悦ばせて下さいましたやら
斯くいふ際には 兄姉や身内など何もなりはしませぬ
本当の心を知って下さる友ほど有難いものはない
私は今至極丈夫に気楽に 安全に暮らして居ります
少し落着きましたら お目にかかり度存じます」

という内容の手紙を送っています。

花子からは、

「私はね、燁さま、あなたの今日のことについては人がよく言はふが悪く言はうが何とも思いませんよ たとえ悪かったとしてもすでに為されたことは為されたのです」

「どんな場合にもあたなと私は ”燁さま” と “花ちゃん” ですから、どうぞどこまでも一緒に行き度いと思ひます」

という友情の確認の手紙が蓮子へと送られています。

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