「らんまん」松坂慶子が槙野千鶴役で一人二役 モデルの牧野鶴代は富太郎の晩年の研究を支え、死後の標本整理や寄贈に貢献

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NHK連続テレビ小説「らんまん」最終週(9月25日放送・第126回)に松坂慶子が再登場し、万太郎の娘・槙野千鶴の老年期役を演じています。

松坂慶子が演じた千鶴の遺品整理のエピソードは、モデルとなっている牧野鶴代が父・富太郎の晩年の研究を支え、父の死後には研究成果の整理や寄贈に大きな貢献を見せた史実がモチーフになっています。

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昭和33年、万太郎の死後に父の遺品の整理をする千鶴

ドラマの前半で万太郎の祖母・タキ役を演じていた松坂慶子。最終週では老年期の槙野千鶴役として一人二役での再出演を果たしています。千鶴はタキのひ孫にあたる人物ですね。

1958年(昭和33年)、すでに万太郎と寿恵子が亡くなっている東大泉の家にアルバイト志望の女性・藤平紀子(宮﨑あおい)がやって来ます。

アルバイトの募集主は、東大泉の家を守ってきた万太郎の三女・槙野千鶴(松坂慶子)。千鶴は自宅の敷地にある「MAKINO HERBARIUM(槙野植物標本館)」に残された膨大な標本の数々を都立大学に寄贈するため、その整理と分類をしてくれるアルバイトを探していたようです。

偉大な槙野万太郎博士の標本を整理するだけでなく、それが本当に万太郎自身による標本なのかも判別していかなければならないという重大な仕事だと知った藤平紀子は、思わず尻込みしてしまいます。

一度は畏れ多いと仕事を断る藤平紀子ですが、これら標本類が槙野家の人たちの必死の努力により関東大震災や戦災から守られたものだと気がつくと、身が引き締まる思いでこの仕事を引き受ける事になります。

※千鶴は1897年(明治30年)頃の生まれですので、計算上1958年(昭和33年)の千鶴は61歳前後になっています。
※史実では牧野富太郎は1957年(昭和32年)に94歳で亡くなっています。
※松坂慶子の役名は「槙野千鶴」となっており、千鶴は未婚あるいは出戻りで家を守っているようですね。

モデルは牧野富太郎の次女・鶴代

万太郎の娘・千鶴が両親亡き後に東大泉の家を守り、父の研究成果や遺品の整理の整理を行う…。この一連のエピソードは、千鶴のモデルと思われる牧野富太郎の次女・牧野鶴代の足跡がモチーフになっています。

牧野富太郎、壽衛子夫妻の次女(※)・鶴代は父の晩年の研究や生活を支えたことで知られます。(※次女と表記しましたが、夭折した長女・園子が居たので、本来は三女であると思われます。一般的には次女と表記されています)

牧野鶴代は、1989年(明治31年)生まれ。19歳の頃に社会主義運動家だった額賀二郎と結婚して2男1女をもうけたようですが、結婚生活は不幸の連続だったらしくやがて離縁。子供を連れて両親が住む練馬・東大泉の実家に戻っています。

「出戻り」後は母の壽衛子とともに父・富太郎の研究を支えています。1928年(昭和3年)に壽衛子が54歳で亡くなってからも、鶴代は富太郎の研究と生活を支え続けました。

鶴代は父の身の回りの世話だけでなく、出版社との交渉や植物同好会の方々との連携など、まるで富太郎のマネージャーのような役割を献身的に行っていたそうです。

父の遺品整理 標本、蔵書を後世に引き継ぐ役割

1957年(昭和32年)、牧野富太郎は家族に見守られながら94歳で亡くなっています。妻が亡くなってから29年。老いてなお植物の研究に没頭し続けた末に、大往生といえる最期を迎えています。

東大泉の自宅敷地内の標本館には、富太郎が生涯をかけて集めた膨大な標本と蔵書が遺されました。

父の晩年を支えた鶴代は、これら遺品の整理や寄贈にも大きな貢献を見せています。

富太郎が亡くなった翌年の1958年(昭和33年)には高知県立牧野植物園、東京都立大学理学部牧野標本館、練馬区牧野記念庭園が一斉に開園、開館しています。

鶴代はこれら施設への蔵書や標本の寄贈の手はずを整え、東大泉の自宅敷地も東京都(練馬区?)に寄贈(=練馬区立牧野記念庭園)。牧野富太郎の偉業を後世に伝える施設の誕生に大きく貢献したのです。

鶴代の孫・牧野一浡さんは学芸員に

▼東京郊外・東大泉の終の棲家は「練馬区立牧野記念庭園」として今も受け継がれています。そんな施設の運営に、富太郎の子孫が携わっている、そんなお話です。

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