NHK連続テレビ小説「らんまん」第25週より。
1923年(大正12年)に発生した関東大震災は東京下町を中心に大火事が発生し、多くの犠牲者が出ました。しかし、神田の和泉町と佐久間町では住民たちの決死の防火活動が功を奏し、町が焼け残ったとするエピソードが伝わります。
「らんまん」ではこうした実話をもとに、江戸の元火消しだった大畑印刷所の大将が神田の町を守るというストーリーが描かれています。
神田の大畑印刷所 元火消しの大将・大畑義平
神田の大畑印刷所といえば、かつて万太郎(神木隆之介)が石版印刷の技術を習得するために修行をした会社。今は万太郎の弟子の虎鉄(濱田龍臣)が大畑印刷所で働かせてもらっています。
1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生すると、折からの強風により神田周辺にも大火が迫っています。そこで敢然と炎に立ち向かったのが、大畑印刷所の大将・大畑義平(奥田瑛二)でした。
義平は喧嘩っ早いが義理人情に厚い昔気質の江戸っ子で、維新前(幕末)には町の火消しとして何度も町を大火から救ったという武勇伝を持っています。
義平は神田に迫る炎を目にすると、神田川方面への避難を急がせる虎鉄らを制し、以下のように発言しています。
義平「待てえ!ここで食い止める!」
虎鉄「何言うがですか!?」
義平「命があるうちに逃げたんでは火消しの名折れだ!おい、水運べ!」
虎鉄「大将!大将!」
義平「ここは江戸の大火でも焼け残った!これまで一度も焼けたことがねえ!神田の火事は俺たちが何度も何度も食い止めてきた!火を消せ。町の人を助けろ!守れ!」
結局神田に消防隊は来ませんでしたが、義平をリーダーとした神田の住人たちの連携により、和泉町と佐久間町が焼け残ったとのこと。義平らしい男気あふれるエピソードが描かれています。
※「らんまん」に登場する大畑印刷所と大畑義平は、牧野富太郎(万太郎のモデル)が石版印刷の技術を学び、妻の壽衛子との仲を取り持ってくれた神田錦町の印刷所の主人・太田義二がモデルになっています。
ただし、この太田義二という人物が関東大震災時に火消しをしたのかどうかは不明。恐らくはドラマオリジナルのストーリーだと思われます。
実話の防火活動がモチーフに 関東大震災で一致団結した神田の人々
▼現在の神田佐久間町界隈。木造住宅はだいぶ減って不燃化が進んでいますが、細い街路は残っています。
この大畑義平の消火(防火)活動のエピソードは、関東大震災時における神田の人たちの自主的な防火活動の様子がモチーフになって創作されています。
江戸の昔から道が狭く、木造密集地として発展してきた神田地区。関東大震災が発生すると東京の下町を中心に大火事が発生し、折からの強風に乗って神田地区にも炎が迫っていました。
この時、神田の住人たちはお年寄りや幼児など弱者を避難させた上で、一歩も引かない自主的な防火活動を展開しています。
水道が断水している厳しい条件下ではありましたが、100人を超える地元住民たちは一致団結。バケツや鍋釜を持ち寄り、神田川の水はもとより風呂屋や豆腐屋の水もフル活用。バケツリレーにより防火活動を展開し、大火事から町を守り抜いています。
「らんまん」でも言及がありましたが、神田では防火活動の結果、神田佐久間町、神田和泉町などが見事に焼け残っています。神田佐久間町では奇跡的にも約1630戸すべてが焼かれずに守られたとか。
関東大震災では東京下町の各地で火災が延焼し、逃げ道が失われてしまうような悲惨な火災旋風も発生しました。
これは当時の下町が木造住宅の超密集地だったという事情とともに、不運すぎることに9月1日当日に北陸沖から東北地方へと抜けていた台風が東京地方に猛烈な風(※)を吹かせたという最悪な気象条件も原因となっています。
(※)1日昼過ぎまで南風であったのが、 台風の移動とともに夕方には西風、夜は北風となり、2日朝には再び南風に。こうした全方向への強風が余計に延焼を後押ししました。
焼け残った神田地区は南に神田川があり、北東側には不燃建造物がありました。大火災の中心地となった浅草、本所方面は神田の北東側にあり、強烈な風(南風、西風)の影響をやや受けにくかったという幸運もあったようですね。
今も神田に残る「防火守護地」の記念碑
震災から16年後の1939年(昭和14年)には東京府が神田の住人たちの防火活動を称え、この一帯を「町内協力防火守護の地」として史跡に指定しています。
神田和泉町の区立和泉公園には今も「防火守護地」の記念碑が残ります。
碑には「この附近一帯は大正十二年九月一日関東大震災のときに町の人が一致協力して努めたので出火をまぬがれました」として、その町名として「佐久間町二丁目・三丁目・四丁目、平河町、練塀町、和泉町、東神田、佐久間町一丁目の一部、松永町の一部、御徒町一丁目の一部」が記されています。