「らんまん」牧野富太郎と関東大震災 終の棲家・大泉村(練馬区東大泉)転居のきっかけに

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NHK連続テレビ小説「らんまん」のモデル人物である牧野富太郎が経験した関東大震災についてまとめます。

牧野富太郎は関東大震災を経験したことが一つのキッカケとなり東京郊外の東大泉(練馬)に引っ越しており、「らんまん」でも関東大震災のエピソードが描かれる可能性があります。

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目次

【らんまん】関東大震災(1923年)が発生 今年でちょうど100年

「らんまん」第25週では時代が1923年(大正12年)に進み、槙野一家が関東大震災に遭遇する様子が描かれそうです。

関東大震災が発生した9月1日当日。いよいよ図鑑の完成が近づいていた万太郎(神木隆之介)は、ある用事のために神戸に旅立つ準備をしていました。そのかたわらでは、寿恵子(浜辺美波)と千歳(遠藤さくら)がいつものようにお昼ごはんの支度をしていました。

そんな何気ない晩夏のお昼どきに、突然未曾有の震災が十徳長屋を襲うことになります。

神田にある大畑印刷所では、印刷所で働く虎鉄と江戸の火消しだった大畑が周囲の消火活動に奮闘。一方、長屋が倒壊してしまった槙野一家は持てる限りの標本を持ち出し、寿恵子の店がある渋谷へと避難します。

モデル夫婦の牧野富太郎・壽衛子夫妻にとって、1923年(大正12年)に発生した関東大震災はその後の生活の転機になる出来事でした。今年(2023年)は震災から100年目の節目の年ともなりますので、「らんまん」でも関東大震災がしっかりと描かれるのではないかと予想します。

【参考】万太郎たちが住む十徳長屋は、東京の下町・根津の低地にあるという設定。関東大震災により東京南東部の下町方面で発生し拡大した大火災の延焼は、根津の少し南側の小石川後楽園、上野公園付近が北限となり、根津の町には及びませんでした。

また、寿恵子の店がある渋谷・道玄坂上界隈はといえば、東京西部の台地上にある町。震度6〜7を記録したとされる下町方面に比べると被害は軽微でした。

▼牧野富太郎夫妻の「終の棲家」となった東京郊外の練馬区東大泉。現在は「練馬区立牧野記念庭園」となっている家に引っ越したきっかけの一つが、関東大震災でした。

著:長田 育恵, 監修:NHKドラマ制作班, 編集:NHK出版
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【史実】牧野富太郎と関東大震災 渋谷の家で遭遇

万太郎のモデル人物である牧野富太郎は、関東大震災が発生した1923年(大正12年)9月1日当時、東京・渋谷の荒木山(現在の渋谷の歓楽街・円山町付近)にある家にいました。

大正時代の中頃、牧野家は経済的困窮が続いたために妻の壽衛子(すえこ)は「待合」と呼ばれる貸席業の商売を始めていました。壽衛子が出した待合「いまむら」が渋谷の荒木山にあったこともあり、渋谷に家があったようですね。
【補足】富太郎の自叙伝によれば「夫婦はもとより別居」していたとあります。妻が商売をしていた渋谷に家があったことは確かですが、もしかしたら富太郎は別に家があったのかも知れません。

1923年9月1日の昼前に発生した関東大震災は、神奈川の相模湾沿岸部や東京の下町(墨田区など東京東部)などで甚大な被害が発生しています。

富太郎一家が震災に遭遇した渋谷は東京西部にあり、荒木山は道玄坂をのぼった台地の上にあるため、震災の被害は下町ほどは大きくなかったようです。

富太郎は自宅で地震の揺れに遭遇すると、持ち前の好奇心が発動して「驚くよりもこれ(揺れ)を心ゆく迄味わった」のだとか。

自宅に座りながら揺れを楽しんでいた富太郎でしたが、ついに隣家の石垣が崩れだすと家が潰れては大変と庭に飛び出し、庭の木にしがみついていたそうです(後に富太郎は、木にしがみついたりしないでもっと揺れを堪能すればよかったと脳天気な後悔をしています)。この時、妻の壽衛子や娘たちは家の中にいたまま出てこなかったのだとか。

結局、牧野家の被害は瓦が落ちた程度で軽微なものでした。余震が怖いからと庭に筵(ムシロ)を敷いて一家で夜を明かしたりはしたそうですが、人的な被害は免れています。

火事による標本焼失を恐れ郊外(東大泉)に引っ越し 終の棲家に

この震災により「植物研究雑誌」第三巻第一号など一部資料が焼けてしまったことがきっかけの一つとなり、壽衛子はある決断をしています。

壽衛子は、都会の真ん中は火事が多く、せっかく富太郎が集めた植物の標本や資料が焼けて灰になってしまってはまずいと考えたようです。

壽衛子は、当時はまだ雑木林だらけだった東京府郊外・北豊島郡大泉村(現在の練馬区東大泉)に小さな一軒家を建てて終の棲家とし、ゆくゆくはこの敷地を標本館を中心とした牧野富太郎の植物園にしようと構想したのです。

こうして1926年(大正15年)5月、牧野富太郎(当時64歳)と壽衛子(当時52歳?)は東大泉の林の中に居を構え、ここを理想のガーデンにしようという壽衛子の壮大な夢がスタートしています。

しかしその2年後。壽衛子は54歳の若さで亡くなってしまい、壽衛子の夢は志半ばで終わってしまいます。富太郎は生前の妻の献身に感謝し、新種の笹に「スエコザサ」と命名しています。

その後も富太郎はこの屋敷に住み続け、牧野邸の跡地は現在「練馬区立牧野記念庭園」として大切に守られています。園内には今も「スエコザサ」が見られます。

※「らんまん」のラストは、万太郎・寿恵子夫妻が東大泉で理想の植物園づくりを目指し、それを末娘の千鶴(本田望結)が見守っていくような展開になるのではないかと予想します。

▼現在は住宅に囲まれている「牧野記念庭園」。壽衛子が富太郎の研究成果を守るために、当時は何もない田舎だったこの土地を選んだわけです。園内には壽衛子の死を偲んで富太郎が新種に命名した「スエコザサ」があります。

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