NHK連続テレビ小説「らんまん」5月24日(水)放送の第38回より。倉木隼人の案内により万太郎が訪れたという「高田馬場の山」「雑司が谷の牧場」についてまとめます。
いずれも実在する(実在した)山や牧場がモデルとなっていると思われますので、そのモデルについてまとめておきます。
倉木隼人の案内で「東京の山と牧場」に
植物学教室の人たちから相手にされず落ち込んでいた万太郎(神木隆之介)ですが、相棒の竹雄(志尊淳)に励まされて元気を取り戻すと、気持ちも新たに東京の植物採集に精を出すことになります。
すっかりやる気が出た万太郎は、朝早くから十徳長屋の住人・倉木隼人(大東駿介)に頼み込んで東京の地理を案内してもらい、新しいフィールドでの植物採集を行っています。※万太郎は、「緑深い場所」「山」「昔から変わらない場所」を教えて欲しいと倉木にオーダーしています。
倉木の案内により万太郎が歩いたのは、「高田馬場の山」と「雑司が谷の牧場」。万太郎はその様子を「高田馬場界隈に行ってきました!東京にも山があるがですね」「雑司が谷の牧場にも寄ってきました!」と植物学教室の2年生・波多野泰久(前原滉)・藤丸次郎(前原瑞樹)コンビに嬉しそうに報告しています。
「高田馬場の山」は箱根山(山手線内最高峰)
「高田馬場界隈に山がある」という万太郎のセリフ。地元の方であればピンときた方も多かったと思います。
高田馬場の繁華街にも近い東京のどまんなか、東京都新宿区戸山にある戸山公園の敷地内には、山手線内最高峰を謳う人工の山「箱根山(高さ44.6m)」がそびえ立っており、万太郎が言及した「高田馬場の山」というのはこの箱根山を指したものだと思われます。
この戸山の地には、尾張藩2代藩主・徳川光友が寛文年間(1661~1673年)に造った戸山荘庭園がありました。広大な敷地には高低差をふんだんに利用した池泉回遊式の大名庭園が造られ、その目玉ともいえる眺望スポットが、お椀を伏せたような人工の築山・箱根山でした。この箱根山が取り壊されずに現代まで残っているのです。
この地域周辺の標高は20〜30mほどであり、山頂の標高が44.6mである箱根山はたいした山ではありません。しかし、都心に突然現れるお椀型の低山は違和感満載であり、頂上に登れば新宿のビル群を眺められるなど知る人ぞ知る人気スポットになっています。
▼ビルだらけの都会にひょっこりと現れる箱根山。大阪の天保山(標高4.53 m)とともに、低山マニアにはたまらない愛らしい山容。
「雑司が谷の牧場」は平田牧場か
そして万太郎が訪ねたという「雑司が谷の牧場」。こちらは東京都文京区目白台付近(雑司が谷)にあった平田牧場のことではないかと思われます。
明治初期当時、東京では西洋化により牛乳の需要が急増しました。しかし現在のように保存技術は発達しておらず牛乳はすぐに腐ってしまうため、都心部への毎日の配達が可能な周辺部(現在の文京区、豊島区周辺)に牧場が乱立したそうです。こうした牧場は、明治維新により廃墟になってしまった大名屋敷跡などを転用した例が多かったようですね。
※「らんまん」劇中でも波多野泰久と万太郎の会話の中で「牛乳はすぐ腐るので、しぼりたてを毎日店に届ける」「大名屋敷の跡が牧場になっている」といった豆知識のセリフが語られています。
雑司が谷地区にあった平田牧場も、そんな明治期の東京の牧場のひとつ。
維新期に活躍した軍人で政治家の山縣有朋が出資した「北辰社」は、明治10年頃(1877年)に雑司が谷村に平田牧場を開設しています。平田牧場には売店もあり、「KANSEI USHINOTITI(官製 牛の乳)」というローマ字の旗を掲げて小売も行っていたそうです。
「らんまん」で万太郎が雑司が谷の牧場を訪れたのは、明治15年(1882年)頃のこと。まさに牛乳の需要が増えて東京郊外に牧場が増えていた時期ですね。東京近郊の牧場は、急速に変化をしていた明治の東京らしい風景といえます。
倉木隼人は万太郎からのお願いに面倒くさそうな顔を見せていましたが、きっちりと東京ならではの見どころ(箱根山、牧場)を案内しているあたり、やはり根はいい人なのでしょうね(笑)。
▼細い路地に残る腰掛稲荷神社。その奥にあったのが平田牧場(東京都文京区目白台3-26)でした。箱根山、雑司が谷ともに万太郎が住む根津界隈からは直線距離で4km程度であり、健脚の万太郎と倉木であればご近所のお散歩感覚でしょう。