「青天を衝け」徳川昭武一行、渋沢栄一が宿泊したパリ「グランドホテル」 現在の「ル・グランホテル」

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NHK大河ドラマ「青天を衝け」第22話では、徳川昭武一行が万国博覧会に出席するため、フランス・パリに到着する姿が描かれます。

徳川昭武一行、渋沢栄一が宿泊したパリの「グランドホテル・ド・パリ」 (現在のル・グランホテル)、それに渋沢栄一が住んだ下宿先のアパート(シャルグラン通り)についてまとめます。

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目次

55日の旅の末にパリに到着

慶應3年(1867年)1月11日(※和暦。以下、すべて和暦で表記)の朝、徳川昭武と使節団一行はパリ万国博覧会に参列するために雪がちらつく横浜港を出航。「御勘定格陸軍附調役」として同行した渋沢栄一は、香港、上海、サイゴン(ベトナム・ホーチミン)、セイロン(スリランカ)、アレクサンドリア(エジプト)などに立ち寄り、建設中だったスエズ運河の見物、初めての蒸気機関車による鉄道旅などを経験。驚愕の海外の風景の数々を「航西日記」に書き残しています。

一行は56日に及ぶ旅の末、マルセイユ、リヨンを経て3月7日にパリに到着。盛大な出迎えを受けた後に、パリの中央にある「グランドホテル・ド・パリ」 (現在のインターコンチネンタル・パリ ル・グランホテル)に到着しています。

豪華絢爛 度肝を抜く「グランドホテル・ド・パリ」

「グランドホテル・ド・パリ」は、パリ万博博覧会に招待する外国の国王など賓客をもてなすために、文久2年(1862年)にナポレオン三世の統治下で完成しています。

「オペラ・ガルニエ」の真向かいにある「グランドホテル・ド・パリ」。派手好きだったナポレオン三世の命を受け、エレベーターや風呂付きの豪華な客室を有するなど世界最高級のホテルといえるものでした。徳川昭武一行はこのゴージャスすぎるホテルを見て、さぞかし日本と欧州列強との国力の差を感じたことでしょう。

歴史ある「グランドホテル・ド・パリ」は「オペラ座のホテル」と呼ばれるようになり、音楽会やバレエを愛する人々のお気に入りの待ち合わせ場所になっていきます。

パリの顔ともいうべきカフェレストラン「カフェ・ド・ラ・ペ(Café de la Paix)」、壮麗な彫刻で飾られた豪華絢爛な「サロンオペラ」ボールルームも開業当時から併設されており、芸術家、俳優、音楽家、作家、画家など世界的なアーティストたちのたまり場となり、パリの文化を生み出す中心地として愛され続けています。

▼「カフェ・ド・ラペ」の豪華すぎる内装。プルースト、モーパッサン、エミール・ゾラ、オスカー・ワイルド、ヴィクトール・ユーゴー、ヘミングウェイ…。世界的有名人が愛した空間。

▼オーベール通りをはさんでホテルの向かいにある「オペラ・ガルニエ」。イタリア建築様式のオペラ座で、 建物内部にはシャガールの天井画や図書博物館があります。幕末の日本から来てこんな建物を見たら腰を抜かしてしまいそう。

豪華すぎて…栄一は「シャルグラン通り」の借家にお引っ越し

まさに国賓を迎えるに相応しい「グランドホテル・ド・パリ」でしたが、栄一はあまりにホテル代が高すぎるため、早々にリーズナブルな居住先を探すと、4月12日にシャルグラン通り30番地にある借家(アパートメント)にお引っ越し。杉浦愛蔵たちとともに転居をしています。

栄一は書記兼会計係として日本への公電や信書の送付、金銭関係の管理、日用品の買い入れ、昭武の日常のお世話などを担当。フランス人教師からフランス語を習い、次第に買い物など日常生活に困らない程度にはパリの生活に馴染んでいたそうです。

▼エトワール凱旋門にもほど近い「シャルグラン通り」の30番地。左側に木戸のアパートメントがあり、「30」の番地表記が見えます(建物が当時のものかは不明)。「グランホテル」からは西に数キロの距離。

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