大河ドラマ「青天を衝け」栄一の生まれた血洗島 地名の由来、場所などまとめ

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NHK大河ドラマ「青天を衝け」で主人公・渋沢栄一が生まれる武蔵国「血洗島(ちあらいじま)」についてまとめます。栄一はこの血洗島で個性豊かな従兄弟たちに影響を受け、成長への足がかりを築いていきます。

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目次

現在の埼玉県深谷市血洗島

天保11年(1840年)、渋沢栄一は武蔵国榛沢郡血洗島村(むさしのくに・はんざわぐん・ちあらいじまむら=現在の埼玉県深谷市血洗島)の農家・渋沢家(中の家=なかんち)に生まれています。血洗島は現在の群馬県との県境になっている利根川にも近い、埼玉県北端部に位置します。

栄一が生まれた天保当時、血洗島村の戸数は5、60戸程度。血洗島の成立時から存在する「吉岡」「笠原」「福島」「渋沢」の四家があったそうです。

渋沢家は分家を重ね、村内に17軒の渋沢姓が存在したそうで、各家を区別するために家のある位置などから「東の家(ひがしんち)」「中の家(なかんち)」「西の家(にしんち)」「前の家(まえんち)」「新屋敷」などと呼んだそうです(※栄一のいとこ・尾高惇忠、長七郎、千代の生家「尾高家」は隣の下手計村)。

このうち「東の家」は村内で一番裕福な家。栄一の生まれた「中の家」は一時期家が傾きかけたものの、「東の家」から婿入りした市郎右衛門(栄一の父)が有能であり、養蚕業や藍玉の商売などで再興。栄一が物心つく頃には村内で二番目に裕福な家にまでなっています。

「青天を衝け」渋沢家一族の家系図・相関図、兄弟・従兄弟関係まとめ

▼すぐ近くを流れる大河・利根川の氾濫に悩まされ続けた血洗島。一方で村のそばには「中瀬河岸(なかぜ・かし)」という利根川流域最大の船着場があり、利根川を通じて江戸から物資や情報がいち早く伝わりました。また、現在のJR高崎線沿いには当時の主要街道だった中山道(深谷宿)も通り、内陸部の農村でありながら交通・流通の要衝であり風通しの良い場所だったと言えそうです。

「血洗島」地名の由来

「血洗島(ちあらいじま)」という血なまぐさい地名ですが、その由来は以下のような諸説があるようです。

①「赤城山のオオムカデ」が「日光の大蛇」と争って傷つき、この地で血を洗った説

② 利根川の度重なる氾濫でしばしば土地が洗われた「地洗い島」説

③ 利根川の度重なる氾濫で土地が荒れ果てていた「地荒れ島」説

④八幡太郎(源義家)の奥州遠征の際にこの近くで合戦があり、家臣が切り落とされた片手を洗った説

などがあり、どれも確証はないようですが②の「地洗い島」が有力ともされます。利根川は繰り返し氾濫して流路を変え、微高地である血洗島は流路の中の小高い中洲であったことが、地名に「島」がついた理由のようですね。

現存する渋沢栄一、尾高惇忠の生家

渋沢栄一の生家「中の家」は血洗島の中西部、現在の青淵公園(※栄一の雅号「青淵(せいえん)」から命名)の近くにあります。現在の主屋は栄一の妹夫妻によって明治28年(1895年)に上棟されたものだそうで、豊かだった養蚕農家・渋沢家の面影を今に伝えます(埼玉県深谷市血洗島247-1)。

また、隣村にあった「尾高惇忠生家」(埼玉県深谷市下手計236)も現存。「渋沢栄一記念館」(埼玉県深谷市下手計1204)などとともに「論語の里」として一帯が整備され、観光コースとなっています。

▼渋沢栄一生家「中の家」。家の目の前には栄一の父母が眠る墓地があります。近くの諏訪神社は少年時代の栄一や従兄の喜作がよく遊んだ場所で、鳥居や社殿の扁額(へんがく)は栄一が揮毫しています。

▼尾高惇忠生家。こちらも立派な建築が大切に守られています。

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