NHK連続テレビ小説「あさが来た」で、ヒロイン・あさ(波瑠)の商いの師匠として重要な役割を果たすのが、ディーン・フジオカが演じる薩摩藩士、実業家の五代友厚(才助)です。
この記事では、ドラマ上で五代友厚が果たす役割と、ドラマ原案本「小説・土佐堀川」で描かれた五代友厚と広岡浅子(あさのモデル)との交流の様子などをまとめます。
あさと五代 大坂での運命の出会い
物語第一週。嫁ぎ先である加野屋に挨拶に行くために大坂にやってきたあさ(鈴木梨央)は、町なかであるイケメン男性と運命的な出会いを果たします。
その時の少女あさは知る由もありませんが、この男こそ、後に「東の渋沢栄一、西の五代友厚」と称され「大阪近代経済の父」とも呼ばれることになる、若き日の五代友厚(ごだいともあつ)だったのです。※五代はあさの13歳年上という設定。
生き方も含め、あさの心の師に
あさは大阪に嫁入りした後、五代と再会を果たします。嫁ぎ先の加野屋の危機に直面していくあさは、西洋の事情にも明るくグローバルな考えを持つ五代の導きを得て、少しずつ女商人としての才を開花させていきます。
私利私欲を持たず(死後、多くの借金が発覚するほど)事業を通して人々の暮らしを豊かにするという大きなビジョン、それに時代の先を見通す目を持つ五代は、あさにとって「師匠」といえる存在になっていくのです。その先には、男女としての恋も…?
ドラマでは、実在の偉人でありながら日本人の間で語られることの少ない「五代友厚」自身の人生にもスポットが当てられ、物語に奥行きを与える存在となっていきそうです。
実在のモデル 五代友厚と広岡浅子は親しかった?
▼「あさが来た」放送開始にあわせて、こんな本も発売されてます。著者の原口氏は「あさが来た」で時代考証を担当されているそうです。
「あさが来た」で登場する五代友厚の人生は大筋は史実通りですが、ある程度脚色された「フィクション」であり、あさと繰り広げられる深い交流も、ドラマ上で創作されたオリジナルストーリーです。
「大阪近代経済の父」五代友厚は実在の人物ですが、NHKオンラインによれば、あさのモデルである広岡浅子とどれほど親しかったのかという詳しい文献はあまり残っていないとか。ただし政府要人だった五代は、加島屋の事業に手を差し伸べたともされ、まったく遠い存在だったというわけではないようです。
また、五代が晩年新築した大阪・中之島の邸宅(西弘成館があった場所。現在の日本銀行大阪支店)は加島屋のあった肥後橋前からも至近であり、当時の大阪を支えた要人同士、存在を身近に感じる距離感だったのではないかと推測できます。
ドラマ原案「小説・土佐堀川」での描写
「あさが来た」の原案である「小説・土佐堀川」には、ドラマの描写とは異なる浅子と五代友厚との以下のような交流が描かれています。
所有する炭鉱爆発事故、銀行設立の頓挫に見舞われて苦境にあった浅子は、実家・三井家の法事にやってきた五代友厚と会話を交わします。浅子はそれまで五代と親しく話したことはなく、この時がほぼ初めての長い会話だったとのこと。
この時、憧れの実業家・五代から聞かされた「へこたれたらあかん」「勝たなあかんで、負けの人生は惨めや」という言葉は浅子の耳に残り、浅子は改めてモットーである「九転十起生」を自らに誓っています。
「小説・土佐堀川」での五代の登場ページはほんのわずかであり、「あさが来た」での五代の活躍はドラマ脚本のオリジナルとなっています。
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