朝ドラ【エール】裕一、音楽慰問のため激戦地・ビルマへ モデル・古関裕而の従軍、慰問団体験まとめ

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NHK連続テレビ小説「エール」では、主人公の裕一が音楽慰問のために激戦地・ビルマに派遣される姿が描かれます。

古山裕一のモデルとなっている作曲家・古関裕而は戦時中に従軍や慰問団への参加をたびたび経験したほか、終戦間際には召集令状を受けて海軍に入隊しています。この記事では、古関裕而の戦争、戦地体験などを簡単にまとめます。

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目次

ビルマに派遣される裕一

「エール」では裕一の戦時中の活動の様子が詳細に描かれていますが、そのハイライトのひとつとなるのが、裕一が音楽慰問のためにビルマ(現在のミャンマー)に派遣されるというストーリーです。

作家・水野伸平と画家・中井潤一とともにビルマ・ラングーンに到着した裕一。そこで裕一は、従軍記者・大倉憲三(片桐仁)から藤堂先生(森山直太朗)が大尉としてビルマにいるらしいことを聞かされます。

お世話になった藤堂に何としても会いたい裕一は、銃弾降り注ぐ激戦の地で恩師との再会を果たしますが、藤堂の部隊は敵の急襲を受けて…。

▼従軍記者・大倉憲三は、戦後に古関裕而に「栄冠は君に輝く」の作曲を依頼した野呂信次郎がモデルと考えられます。
【エール】従軍記者・大倉憲三(片桐仁) モデルは音楽評論家・野呂信次郎
【エール】作家・水野伸平と画家・中井潤一 ビルマ慰問の同行者 モデルは火野葦平と向井潤吉

海外への従軍、旅行経験も多かった古関裕而

裕一のモデル人物である古関裕而は、戦争の時代に入るとたびたび海外への旅、慰問、従軍を経験しています。

「船頭可愛や」などのヒットを経験し、すでに売れっ子作曲家となっていた戦前の古関裕而。昭和12年(1937年)には奔放な人生を歩む妻・金子の兄とその家族を訪ねて、金子とともに建国後5年だった満州への船旅を決行しています。

古関は大連、奉天(現・瀋陽)、新京、ハルビン、鞍山などの東北部主要都市をめぐり、日露戦争の激戦地だった旅順では生々しい戦争の傷跡を実感。その帰路、大陸各地で見た戦争の気配を思い出しながら、「露営の歌」(♪勝ってくるぞと勇ましく〜)のメロディを書き上げています。

「レコード部隊」として中国に従軍 死を間近に感じる

「露営の歌」「愛国の花」などのヒットで「軍歌の覇王」となりつつあった古関裕而。

昭和13年(1938年)には日中戦争における重要な局面であった漢口の攻略の様子を記録、発表することを目的とした従軍部隊に参加しています。漢口は現在の中国・武漢市の一部にあたりますね。

一行は作家を中心とした「ペン部隊」(菊池寛、久米正雄、佐藤惣之助ら)と、これに呼応した「レコード部隊」(古関裕而、西條八十、佐伯孝夫、飯田信夫ら)を結成。古関らは羽田空港から空路で上海に入り、そこから鉄路で占領下の南京、さらに船で漢口へと向かっています。

古関は「露営の歌」を大合唱する現地前線の兵士たちの前で「サプライズ・ゲスト」としてスピーチを行い、感極まり涙する古関の姿が兵士たちの心を動かしています。

その一方で、自分たちが乗船する可能性があった大型貨物船が翌日に砲撃されたり、夜間に中国兵たちの来襲を受けて一同で自決を相談し合うなど(結局紙一重のところで中国兵たちは古関たちの居場所を襲わなかった)、前線の危険地帯で九死に一生を得る体験をし、帰国を決断しています。

ビルマ、東南アジア各地に慰問

▼古関裕而に関する本はさまざま出版されていますが、本人による自伝「鐘よ鳴り響け」がオススメです。

▼新書「古関裕而の昭和史」にも、古関裕而の従軍体験などが詳しく書かれています。

昭和17年(1942年)には日本放送協会(NHK)が派遣した「南方慰問団」に参加。有名歌手や落語家、舞踏家などの文化人、芸能人30余名で結成された豪華な一団とともに、シンガポール(昭南)へと向かっています。古関ら一行はそこからビルマのラングーン(現・ヤンゴン)、ラシオ他ビルマ各地、中国雲南の奥地、マレー半島へと、交通が不便かつ危険な中での過酷な慰問旅を敢行しています。

道中、ビルマのタウンギーでは、後にインパール作戦の責任者として批判されることになる牟田口廉也中将から大歓迎を受けたそうです。

そして昭和19年(1944年)。いよいよ戦局が悪化していた時期に、古関はインパール作戦における「特別報道班員」として、火野葦平(作家)、向井潤吉(画家)、石山慶二郎(朝日新聞東亜部の敏腕記者)らとともに南方慰問に参加。再びビルマの地を訪れています。

古関裕而はラングーンに数ヶ月滞在し、現地の音楽文化に触れるとともに、戦争最前線の恐ろしさ、悲惨さを体感しています(古関裕而自身は最前線には赴かなかったようですが、従軍記者や前線を体験した火野葦平、向井潤吉らから前線の悲惨な様子を聞いています)。

「エール」で描かれる裕一のビルマ派遣のエピソードは、古関裕而の二度に渡るビルマ訪問の史実をモチーフに創作されていると考えられます。ただし、恩師・藤堂の部隊が急襲されるというエピソードはフィクションとなります(藤堂のモデル・遠藤喜美治は昭和46年=1971年に80歳で亡くなっています)。

【エール】作家・水野伸平と画家・中井潤一 ビルマ慰問の同行者 モデルは火野葦平と向井潤吉

※昭和20年(1945年)には、ついに古関裕而のもとに召集令状が届いています。この経緯については「【エール】裕一に召集令状が届く モデル・古関裕而の召集体験は?」の記事にまとめています。

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