NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「ブギウギ」のヒロイン・花田鈴子は、大阪の下町・福島の銭湯の看板娘として育ちます。
ヒロインのモデル人物である「ブギの女王」笠置シヅ子(笠置シズ子)は、幼少期に大阪の銭湯文化の中で芸ごとに目覚め、スターの道をかけあがっています。その躍進には間違いなく大阪の銭湯で過ごした幼少期の日々が影響していますので、そのあたりの経緯をまとめてみたいと思います。
【ブギウギ】大阪下町・福島の銭湯「はな湯」の看板娘 クセが強い常連客に囲まれて…
▼「はな湯」を営む音吉、ツヤ夫妻は大の仲良し夫婦。番台にはいつもツヤが入り、音吉はどこへやら。店のイメージカラーは淡く美しい藤色。庭にあるという藤棚が春になると美しく咲き誇るそうです。
#梅吉さん(柳葉敏郎) は #ツヤさん(水川あさみ) が大好き。
— 朝ドラ「ブギウギ」10月2日スタート (@asadora_bk_nhk) September 21, 2023
柳葉さんは「梅吉はツヤちゃんが全て」とおっしゃっていたそうです。きっとみなさんも、梅吉さんの「ツヤちゃーん」呼びが愛おしくなりますよ。。#ブギウギ pic.twitter.com/JURUQMg6Pw
ヒロインの花田鈴子(澤井梨丘→趣里)は香川生まれ、大阪育ち(大正初期生まれ)。
両親の花田梅吉(柳葉敏郎)とツヤ(水川あさみ)は大阪の庶民的エリアである下町・福島で愛される銭湯「はな湯」を営んでいます。
「はな湯」には多種多様な常連客が日々通ってきます。
大工仕事が得意な酔っぱらい「アホのおっちゃん」(岡部たかし)、なかなか結婚ができない八百屋のおじさん・キヨ(三谷昌登)、銭湯の休憩スペースで客を相手にあん摩の仕事をしているアサ(楠見薫)、花田家のかかりつけ医の「熱々先生」(妹尾和夫)、さっぱり当たらない易者(なだぎ武)など、鈴子は個性豊かな大人たちに可愛がられ、天真爛漫な少女に育っているようです。
鈴子はこうしたクセモノ常連客を相手に、「はな湯」の休憩室で大好きな歌や踊りを披露しては拍手喝采を浴び、「はな湯」の看板娘として地元で知られる存在になっていきます。
やがて鈴子は道頓堀にある梅丸少女歌劇団(USK)に入団すると、歌手の道を歩み始め、戦後の大スターになっていき…。
▼見るからにクセが強い「はな湯」の常連客たち。後に「福来スズ子」として大スターになっていく鈴子にとって、幼少期から彼らと接して人の機微を見続けたことが大きな財産になっていきそうです。
「ここだけの話、はな湯の休憩所のシーンは隅々まで目が離せませんよ」…と、撮影スタッフが教えてくれました。
— 朝ドラ「ブギウギ」10月2日スタート (@asadora_bk_nhk) September 22, 2023
隙あらばおもろいことをやろうとする人たちが集結する、はな湯の休憩所にぜひご注目を!
左から:三谷昌登さん、楠見薫さん、なだぎ武さん、妹尾和夫さんです!#ブギウギ pic.twitter.com/HecmfIfk6P
【モデル】大阪の銭湯が芸のルーツ 「ブギの女王」笠置シヅ子
ヒロイン・花田鈴子(福来スズ子)のモデルとなっているのは、戦後に「ブギの女王」として国民的スターとなった笠置シヅ子(かさぎ・しづこ)です。
※時期によって芸名が「三笠静子」「笠置シズ子」「笠置シヅ子」と変化しています。まぎらわしいので、この記事では「笠置シヅ子」表記で統一しています。本名は亀井静子です。
笠置シヅ子は、香川・相生村(現在の東かがわ市)の素封家(大金持ち)の息子と、その家で家事見習いをしていた女性との間に生まれています。
生後すぐに、訳あって大阪福島で米や薪炭を扱う商家だった亀井音吉、うめ夫妻に引き取られて養子となったシヅ子。音吉とうめが転業して銭湯を始めたため、大阪の銭湯の娘として育っています。
養母のうめは、病弱気味だったシヅ子に芸事で生きていける術を与えるため、日本舞踊などを習わせたようです。
もとより筋が良かったのか、シヅ子は家業の銭湯の脱衣場を舞台にし常連客を相手に歌や踊りを披露して評判となっています。
歌や芝居を専門的に教育されたわけではないシヅ子ですが、銭湯にやって来る常連客の反応をつぶさに感じ、芸能の町・大阪に溢れかえっていた歌舞音曲を肌身で感じながら育ったことが、後の歌手としての躍進に繋がっていったことでしょう。
シヅ子は小学校を卒業すると道頓堀の松竹楽劇部(現在のOSK日本歌劇団)に入団。スターの道を歩み始めることになります。
(ちょっと余談)銭湯は多種多様な人と文化の交流の場
▼現在でも銭湯で落語会や音楽ライブが開かれたり、スーパー銭湯からおじさんアイドル「純烈」が誕生したりと、芸能文化と銭湯の親和性は高いですね。
桐生の銭湯「上の湯」さんでの落語会『鶴の湯』!声もよく響き✨!お客様と一体感のある素敵な会でした♨️
— 林家つる子 (@hayashitsuruko) September 7, 2022
高座の設営は上の湯さんの若旦那様!強度抜群😳👏!
上の湯さんの温かさが、会の温かさにも繋がっていると、心から感じました。本当に素敵な銭湯です。桐生へお越しの際はぜひ、上の湯さんへ…! pic.twitter.com/6Jw9bicF46
以下は少し余談になりますが、銭湯と大衆芸能文化について軽く書いておきます。
江戸時代以前、町なかには曲芸や軽業、軽口物真似、説経節・祭文などの語り物芸、音曲など、道端に大道芸や辻芸が溢れ返っていたことは御存知のことかと思います。
しかし、西洋に追いつけ追い越せを目指した明治新政府はこれら道端の大道芸を後進国の悪習と捉え、多くの大道芸を禁止しています。
明治以降、官憲の目が入りにくい銭湯(湯屋)はアンダーグラウンドに追いやられた大衆芸能の交流の場になったとされます。銭湯では「義太夫、常磐津、都々逸、流行歌、物真似芸、落語」などさまざまな芸が披露され、特に都会の銭湯では多種多様な人々が出入りし、さまざまな文化の交歓、人的交流が行われていました。
笠置シヅ子が育った大正期の大阪の銭湯も、こうしたカオスな雰囲気は残っていたことでしょう。大阪の庶民的なエリアの銭湯の中でどっぷりと浸かって育ったシヅ子ですから、幼少期から「ブギウギ」で描かれるようなわけのわからない雑多な浴客たちと丁々発止のやり取りをしたことと思います。
こうしたシヅ子の原体験は、後に「東京ブギウギ」をはじめとした楽曲で歌手の世界に革命を起こしたシヅ子の芸風にも繋がっています。
シヅ子のステージスタイルの特徴と言えば、躍動感あふれる(特徴的な地声の)歌声と、目まぐるしく動く表情、歌劇団仕込みのダンスパフォーマンス、さらには大阪人らしいサービス精神あふれる観客との掛け合いなどなど。シヅ子は直立不動が当たり前だった当時の歌手のスタイルをぶっ壊したイノベーター的な存在であり、その芸風の確立に際し、間違いなく幼少期の大阪での銭湯の日々が活かされたことでしょう。
また、シヅ子の大ヒット曲のほとんどを手掛けた作曲家・服部良一も同じ大阪の庶民的な町の生まれ育ち。大阪の大衆芸能文化にどっぷりと浸かって育った二人が、日本の歌謡界に大きな歴史を作っていったのです。