朝ドラ「スカーレット」ヒロインモデル 陶芸家・神山清子さんの半生 「信楽自然釉」と「骨髄バンク」

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NHK連続テレビ小説「スカーレット」は、実在の陶芸家・神山清子(こうやま・きよこ)さんの半生がモチーフとなり、フィクションで物語が創作されていきます。

この記事では、神山さんの半生を綴った「母さん子守歌うたって」などを参考に神山さんの足跡をまとめます。

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目次

神山清子・簡単な人生略歴

はじめに、神山清子さんのごく簡単な半生をまとめます。以下、登場人物を敬称略とします。

神山(旧姓・金場)清子は、1936年(昭和11年)長崎県佐世保生まれ。終戦直前、炭鉱で働いていた父が朝鮮半島出身労働者の逃亡を手助けしたとして警察に追われる身となり、一家で滋賀・信楽へと逃げ延びています。

信楽で柔道と絵が大好きな少女として育った清子は、父の考えにより和裁学校に行かされたものの、絵描きへの夢が捨てられずに信楽焼の絵付け助手を始めます。その後、陶器会社勤務を経た後に27歳で陶芸家として独立。研究の末に古(いにしえ)の「信楽自然釉」を復興・完成させ、当時としては希少な女性陶芸家として、一躍マスコミの脚光を浴びています。

私生活では、陶器会社時代に出会った陶芸職人の男性(神山姓)と結婚。久美子、賢一という二人の子供に恵まれます。しかし次第に夫婦関係は冷え込み、夫が別の女性と恋に落ちたために離婚。その後は子育てを行いながら、自らが作り上げた穴窯「寸越窯(ずんごえがま)」とともに生きる人生を歩んでいます。

やがて成長し同じ陶芸家となった長男・賢一でしたが、29歳の時に慢性骨髄性白血病を発病。清子はドナー探しに奔走するも、2年後に賢一は亡くなってしまいます。こうした悲しい経験から、清子は骨髄バンクの必要性を訴える啓蒙活動を長年継続しており、現在も「滋賀骨髄献血の和を広げる会」の代表を務めています。

以上が、神山清子さんのごく簡単なプロフィールとなります。以下、(長くなりますが)もう少し詳細に半生を追ってみたいと思います。「スカーレット」のヒロイン・川原喜美子と重なる部分が多く発見できると思います。

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▼「母さん子守歌うたって」を原作とし、神山さんの半生が映画化された「火火」。母親役が田中裕子、息子役が窪塚俊介。

生い立ち:長崎の炭鉱から逃げ延びて滋賀へ

神山(旧姓・金場)清子は、1936年(昭和11年)長崎県佐世保生まれ。佐世保の炭鉱で働く父と優しい母、1歳下の弟・繁美、3歳下の妹・静子という5人家族で育っています。

清子が小学校2年生だった1944年(昭和19年)のこと。炭鉱で働く多くの朝鮮半島出身者と仲良くしていた父は、そのうちの一人が労働の辛さに耐えかねて脱走しようとするのを手助けしたとして、警察に追われる身になってしまいます。

一家は荷車に荷物を積み、追手を逃れて滋賀県の山里・日野に辿り着きます。終戦後、現在は信楽町となっている甲賀郡雲井村字勅旨(こうかぐん・くもいむら・あざちょくし)に移り住みます。

父は銀行からお金を借りて山を買い、材木工場を始めます。しかし、困っている社員にお金を貸したり人を呼んでは酒盛りでどんちゃん騒ぎを繰り返し、せっかく商売で儲かっても常に家計は火の車状態でした。煮炊きや金の勘定などの家のことは、お嬢様育ちだった母に代わり清子が行っていたとか。

そんなこんなで貧しい生活は続き、家ではもち米、麦、野菜などを作る半自給自足生活。貧しい生活でしたが、こうした経験は少なからず清子の人生に役立っていくことになります。

柔道と絵描き 絵付けの先生に弟子入り

清子は幼い頃から婦人警官に憧れを持っており、その影響で柔道を習っています。そして、柔道の次に大好きだった「絵を描くこと」が将来の仕事へと繋がっていきます。

次第に美大に進学したいと考えるようになっていた清子でしたが、「女は裁縫が出来なければだめだ!」という父の考えにより、無理やり和裁学校に行かされてしまいます。それでも絵の夢を捨てきれなかった清子は、陶器作りが盛んな信楽で絵付けという仕事があることに気が付き、飛び込みで絵付師に弟子入り志願をしています。

こうして、とある絵付けの先生のもとで働くことになった清子。実際には家事手伝いをやらされるなど回り道も多かったようですが、少しづつ火鉢などの色塗りを任されるようになります。しかし、この先生がなかなか短気でエキセントリックな人で、気に入らないことがあるとすぐに物をぶつけるという習性があり、結局それに嫌気が差して一年でこの仕事を辞めてしまっています。

陶芸会社で絵付けの仕事を得る 陶芸家と結婚

18歳の時、近くの陶芸会社での絵付け職人の仕事にありついた清子(女性の絵付けは清子一人だった)は、一心不乱に絵付けの練習を繰り返し、陶芸の世界にのめり込んでいきます。

この頃、同じく絵付けの部門に移ってきた男性(神山姓)と出会うと、清子はこの寡黙なこの男性と恋に落ちていきます。清子は21歳でこの男性と結婚し、長女・久美子、長男・賢一を授かっています。

まだ幼かった子供を仕事場で寝かせてまで陶芸会社で懸命に働いた清子でしたが、国内の経済成長に伴い火鉢の需要が減るなど会社の経営に陰りが見え始めたため、あっさりと会社に見切りを付けて退職をしています。

陶芸家としての目覚め

その後しばらくは信楽焼の型押しなど下請けの仕事をしていた清子でしたが、子供たちが泥団子遊びをしている姿を見て「ああいう風にやるとお皿が出来るかもしれない」と閃き、土団子で大皿を作り上げた第一作「小紋様皿」を完成させています。

ここから、作陶そのものの面白さに目覚めていった清子。作品を作り続けるうちに公募展に出展すると、「日本クラフト展」「朝日陶芸展」に続けて入選し、「信楽に魅力的な陶器を作る神山清子という女流陶芸家がいる」と話題になっています。この頃、清子は職業として本格的にやきものをやっていきとたいと考えるようになります。

やがて電気窯ではなく穴窯を使って本物の信楽焼を作り出したいと考え始めた清子は、夫とともに自宅に半地上式の穴窯「寸越窯(ずんごえがま)」を完成させます(34歳)。

離婚 そして「信楽自然釉」完成

本格的に陶芸家として歩み始めていた清子でしたが、賢一が中学生になった頃には夫との関係が冷え切ってしまいます。夫が別の女性(陶芸助手)と恋仲になり去ってしまったことから離婚をすると、母と二人の子供との困窮生活が始まります。

それから間もなくのこと。近所にあるかつての「寸越窯跡」で太古の美しい自然釉を残す陶器の破片を見つけた清子は、この自然釉に魅せられ、再現を目指すようになります。信楽の土を使い試行錯誤を重ねた後、ついに清子は「信楽自然釉」と名付けることになる美しいやきものを完成させます。

窯焚きを手伝ってくれた近所の人にこれを見せたところ口コミで評判となり、NHK番組「土と炎と私」「新日本紀行」で紹介されるなど、清子の「信楽自然釉」はすぐに全国へと広まっていきます。

女性が窯場に入ると「穢れる」として嫌がられた時代。清子は全国の女性陶芸家に勇気を与える存在となり、女性陶芸家の第一人者として、活躍を続けることになるのです。

長男・賢一が白血病に

陶芸家として成功を得ていた清子でしたが、人生の大きな転機が訪れます。1990年(平成2年)、29歳になった息子・賢一が慢性骨髄性白血病を発病してしまうのです。

清子と同じ陶芸家になり、天目茶碗を極めていくという志を持っていた賢一。しかし作陶中に倒れてしまうと、長く苦しい闘病生活を続けることになります。

まだ公的な骨髄バンクが発足していない時代のこと。愛する息子の余命が二年半だと医者に告げられた清子は、近親者や友人だけでなく、幅広いドナー探しに奔走することになります。

友人や地元の協力者たちが「神山賢一君を救う会」「神山賢一君支援団体連絡協議会」を発足させると、賢一だけでなく白血病に苦しむ他の患者の命も助かるようにドナーを広く探していこうという機運となり、県内のほかの「救う会」と連携を取りながらこの活動は爆発的な広がりを見せています。

闘病生活 骨髄バンク普及の願い

清子は次々に「母子作陶展」などを開催し、広く骨髄バンクの必要性を訴えていきます。こうした活動で多くのドナー希望者が集まったものの、賢一とHLAが符合する人は見つかりません。結局賢一は、HLAが完全には合っていない清子の妹・静子から骨髄の移植を受けることになります。

骨髄移植を受けた賢一は苦しみながらも少しずつ回復し、一時は退院を考えるまでに元気になっています。1991年12月には「骨髄移植推進財団」が設立され、清子も未来への希望を感じて大いに喜んでいます。

再発、そして息子との別れ…

しかし、その後に賢一は白血病を再発。清子は弟子となっていた女性・牛尼瑞香と交代で賢一の看病を続けますが、賢一は死の恐怖に苦しみぬいた末に亡くなってしまいます。31歳という若さでした。

その後、清子は陶芸家としての活躍はもちろんのこと、「滋賀骨髄献血の和を広げる会」の会長として弟子の瑞香とともに賢一の遺志を継ぎ、長年に渡り骨髄バンク普及のボランティア活動に従事し続けています。

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