NHK連続テレビ小説「ブギウギ」第18週では、激動の中で愛助とスズ子の娘・愛子が誕生。スズ子は舞台に立ちながら子育てをすることになります。
この記事では、愛子のモデルとなっている笠置シヅ子の一人娘・亀井ヱイ子さんについてまとめます。一部今後のドラマのネタバレとなってしまうような内容を含みますのでご注意ください。
【ブギウギ】スズ子、愛子を出産
「ブギウギ」第18週では、舞台「ジャズカルメン」を成功させた妊婦のスズ子(趣里)がいよいよ出産準備に突入。スズ子は病気の治療で東京に戻って来られない愛助(水上恒司)を心配しながらも、無事に長女の愛子(あいこ)を出産します。
すぐに羽鳥夫妻が見舞いに駆けつけてくれるなど、生まれたばかりの娘との幸せな時間を過ごすスズ子でしたが、やがてマネージャーの山下(近藤芳正)から愛助が亡くなったことを聞かされて大きなショックを受けることになります。
愛助に認知されることなく非嫡出子(私生児)になってしまった愛子を、シングルマザーとなったスズ子が育てるのか、それとも村山興業側が引き取るのか…。愛助の忘れ形見である愛子の今後を巡り、愛助の母・村山トミ(小雪)とスズ子との話し合いの場が設けられそうです。
※第1話の冒頭で描かれていた通り、スズ子は乳飲み子を抱えて舞台に立ち続ける道を選ぶことになりそうです。スズ子は羽鳥善一とのコンビにより「東京ブギウギ」を大ヒットさせると、幼子を抱えて歌い続ける姿が夜の女性たちの共感を呼び、熱烈な親衛隊が派生していきます。
▼「乳飲み子を抱えたブギの女王」笠置シヅ子には、熱烈な親衛隊(ラクチョウ=有楽町=の女たち)が居たことで知られます。
【史実】笠置シヅ子の長女・亀井ヱイ子 吉本穎右急死の直後に誕生
「ブギウギ」に登場するスズ子の愛娘・花田愛子は、笠置シヅ子の長女・亀井ヱイ子さん(1947年〜)がモデルになっています。
ヱイ子さんは芸能界に進むことなく暮らしており、その人生の詳細は不明です(2024年現在ご存命と思われます)。書籍「笠置シヅ子 その言葉と人生」の一部監修に携わるなど、母・笠置シヅ子の素顔を今に伝える語り部として、たびたびメディアの取材などにも応じているようです。
恋人の悲報の直後に生まれた娘・ヱイ子
1947年(昭和22年)6月1日、笠置シヅ子は恋人だった吉本興業御曹司・吉本穎右(よしもと・えいすけ)との間に出来た女の子「亀井ヱイ子」を未婚のままで出産しています。
シヅ子は、妊娠中に出演した同年2月の舞台「ジャズカルメン」を最後に歌手活動を引退し、吉本穎右と結婚するつもりだったそうです。しかし、出産直前だった5月19日に兵庫・西宮の自宅で病気療養中だった穎右が急死(当時24歳)してしまうと、シヅ子は深い悲しみの中でヱイ子さんを出産しています。
出産の翌々日には師匠の服部良一とその妻・服部万里子が見舞いに来てくれたほか(お七夜には良一が病院でピアノを弾いてお祝い)、6月5日には穎右の叔父で吉本興業常務の林弘高もお祝いに駆けつけ、穎右が遺言として残したという「ヱイ子」の命名書を書き上げて穎右の遺影の前に供えたそうです。
乳飲み子を抱えて歌う「ブギの女王」
籍を入れる前に穎右が亡くなってしまったため、ヱイ子さんは戸籍上「非嫡出子(私生児)」という扱いとなっています。
穎右の母・吉本せいと吉本興業側は、シヅ子の今後を考えてヱイ子さんを引き取ろうかと相談を持ちかけています。しかし、自身が望まれぬ形で生まれた私生児で貰われっ子だったこともあり(大阪の良心的な養父母に引き取られた)、シヅ子は自らの手で娘を育てていくことを決意し、この申し出を断ったそうです。
出産後、育児をしながら歌手活動を再開したシヅ子は、服部良一による名曲「東京ブギウギ」に出会い、「ブギの女王」として大ブレイクしていきます。
スター歌手として颯爽と舞台に登場し、出番を終えると楽屋に戻って娘に乳を飲ませる…。そんなシヅ子の生き様に若い女性たちは共感を覚え、特に経済的に苦労をしていた有楽町界隈の夜の女性たち(ラクチョウの女たち)はシヅ子を熱烈に応援。笠置シヅ子親衛隊を結成した夜の女性たちは、長年にわたりシヅ子を応援し、私生活でも交流を続けました。
「ブギの女王の娘」を見守った大人たち
父親不在の中で育ったヱイ子さんですが、シヅ子の周囲の大人たちに可愛がられて育っています。
シヅ子が長期の巡業に出る際には、幼少期のヱイ子さんが服部良一の家に預けられたというエピソードが残ります。ヱイ子さんは良一の息子で後に音楽家として活躍する服部克久(「ブギウギ」では羽鳥カツオとして登場)を「お兄ちゃん」と呼んで慕ったそうです。服部家と笠置家は文字通り家族ぐるみの付き合いを見せており、その様子は「ブギウギ」でも描かれていますね。
また、ヱイ子さんは母の演技の師匠だった喜劇王・エノケン(榎本健一)にも可愛がられ、榎本家とも家族ぐるみの付き合いがありました。笠置家の自宅ガーデンで開かれたヱイ子さんの誕生パーティー(4歳頃から開催)にはエノケンや古川ロッパをはじめ著名人・業界人が集ったとされます。
ほかにも晩年の淡谷のり子が家にたびたび訪れてヱイ子さんに対し「お母さんに感謝しなさいよ」と忠告するなど、ヱイ子さんには「ブギの女王の娘」ならではの華やかな交遊録が残ります。
吉本穎右と死別した後は独身を貫いた笠置シヅ子。華やかな芸能生活とは裏腹に私生活は地に足がついたもので、娘のヱイ子さんに対してもごく普通のお母さんと同じように厳しく接したそうです。
晩年、シヅ子は癌が再発して入院すると、娘のヱイ子さんに対し自分が入院していることを誰にも言うな、と固く言い渡しています。
そして1985年(昭和60年)3月、シヅ子は愛する娘に見守られて70年の生涯を閉じています。葬儀の喪主をヱイ子さんが、葬儀委員長を77歳の服部良一が務めています。生前に様々な人と交流を深めた笠置シヅ子ですが、最期は愛する娘との時間を大切にし、静かに旅立ったようです。