NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場している頼朝の異母弟・源範頼。第24回放送では範頼が頼朝の怒りを買った末に、悲しい最期を迎えることになりそうです。
この記事では、源範頼の亡くなる原因、その経緯などをまとめます。
「鎌倉殿」の代役を担おうとしたばかりに…
これまで兄の源頼朝(大泉洋)の片腕となり、鎌倉幕府の成立、運営に尽力してきた「蒲殿(かばどの)」こと源範頼(迫田孝也)。第23回放送では、その真面目さ故に頼朝から疑いの目を向けられていきます。
「曾我兄弟の仇討ち」により富士山麓で源頼朝が討たれたという誤報が鎌倉に届くと、範頼は比企能員(佐藤二朗)に乗せられるままに、「次期鎌倉殿」の継承を意識した行動を見せています。
もちろん範頼に野心などなく、兄・頼朝が築き上げた鎌倉を守りたいがための緊急行動だったわけですが、これを問題視した大江広元(栗原英雄)が、範頼の「出過ぎた言動」を頼朝にご注進。広元の目論見通り、頼朝は怒りに震えることになります。
範頼を担ぎ出した張本人の比企能員は見事にトンズラ。範頼は兄への忠誠を誓う起請文を書きますが、大江広元らに厳しく問い詰められてしまいます。結局範頼は死罪こそ逃れたものの、伊豆・修善寺において幽閉、謹慎を命じられてしまいます(第24回)。
▷源範頼を演じているのは、俳優の迫田孝也。ドラマ「真犯人フラグ」「マイファミリー」で立て続けに「犯人にしか見えない役」を好演するなど、名バイプレイヤーとして日に日に存在感を増しています。大河ドラマ「真田丸」では真田信繁の右腕・矢沢三十郎頼幸役で活躍。
大姫への災いは範頼のせい?範頼のもとに善児が…
修善寺へと送られた範頼は、村人たちと日がな畑仕事に打ち込みながら健全な謹慎生活を送っていました。
ところが、後鳥羽天皇への入内が不調に終わった大姫(南沙良)が不遇のうちに病死してしまうと、頼朝は「誰かがわしを、源氏を呪っておる!」とご乱心。その原因が修善寺にいる範頼の呪詛によるものだと決めつけます。
この頼朝の発言を受けた梶原景時(中村獅童)は、「暗殺者」である雑色の善児(梶原善)を修善寺に派遣。善児は範頼の命を奪うとともに、村人たちも次々に殺してしまいます。
【史実】修善寺で最期を迎えた?範頼
「鎌倉殿の13人」で描かれる範頼殺害のエピソードは、概ね史実に沿ったものとなっています。
「曾我兄弟の仇討ち」で頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に入ると、夫の急死に嘆く政子に対し、範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と見舞いの言葉を送っています。この発言が疑り深い頼朝の耳に入ると、範頼は謀反を疑われてしまいます(政子の虚言、または陰謀とする説も)。
範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を書きますが、この文中で「源範頼」という源姓を名乗ったことが「身分不相応」だとして、頼朝をより怒らせてしまいます。結局、範頼は伊豆・修善寺に幽閉されたとされます。
修善寺幽閉後の範頼がその後どうなったのかは、諸説があるようです。
「保暦間記」「北條九代記」などによると、範頼は修善寺の地で誅殺された(※)と伝えられます(建久4年8月17日=1193年9月14日?)。
※具体的には梶原景時の手勢に襲われ、攻防の末に自刃したとする説があります。
※この誅殺を裏付ける明確な資料が残っておらず、後述するような「範頼伝説」が各地に残ります。
範頼殺害の翌日には範頼の家人らが館に籠もって不審な動きを見せたとして結城朝光、梶原景時、仁田忠常らによって討伐されたとされ、こうした説をもとに「鎌倉殿の13人」のストーリー(梶原景時の使者・善児による範頼暗殺、村人全滅)が創作されているのでしょう。
▼伊豆・修善寺の大寧寺に残る源範頼の墓。
【諸説】範頼は生きていた!?各地に残る「範頼伝説」
一方で、範頼は修善寺では殺害されず、別の場所に落ち延びたという伝承も各地に存在しています。具体的に列挙してみると、
・越前国へと落ち延びて生涯を終えたという説。
・武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)の「吉見観音」に隠れ住んだという説。
・武蔵国足立郡石戸宿(現在の埼玉県北本市石戸宿)に落ち延びて暮らした説。範頼ゆかりの「蒲桜」が名所に。
・現在の神奈川県横須賀市の「追浜」という地名が、鎌倉から追われた範頼が上陸した浜だという説。その際、現地で匿ってくれた人たちに自身の名「蒲冠者」から一字を取り、「蒲谷」という名を与えたという説。
・伊予国上吾川(現在の愛媛県伊予市)の鎌倉神社に残る範頼伝説と墓所。当地に逃げ延びたという伝説。
などなど、各地に逃げ延びた範頼の伝説や墓所が存在しています。
▼「範頼伝説」のひとつが残る、埼玉県北本市石戸宿の「石戸蒲ザクラ」(日本五大桜・天然記念物)。現地では範頼が杖として使っていた木がこの地に根付いたという伝説や、範頼自らが植えたという伝承が残っています。
▼愛媛県伊予市の「鎌倉神社」にも、源範頼のものとされる墓が。