NHK連続テレビ小説「なつぞら」序盤に、戦後すぐの上野の闇市(上野自由広場)の風景が登場します。
闇市でその日暮らしをするヒロイン・なつたちの姿は、戦後実際に上野などで見られた戦災孤児たちの悲惨な境遇がモチーフになっています。
上野の地下街で寝泊まり 闇市での日々
「なつぞら」の物語は、終戦翌年の1946年(昭和21年)からスタートします。
劇中では、東京・上野のガード下周辺に自然発生的にできていた「上野自由広場」(闇市)で、戦争により両親を亡くした咲太郎、なつ、千遥の三兄妹が行くあてもなくさまよっている日々の様子が描かれます。
すべてを失い戦争孤児となってしまったなつたちは、上野の薄暗い地下道を寝床にし、靴磨きなどをして日銭を稼いで何とか生き延びていました。
そんなどん底の日々に救いの手を差し伸べるのが、父の戦友である柴田剛男(藤木直人)でした。なつは剛男に引き取られ、北海道・十勝に移り住むことになり…。
浮浪児、餓死者があふれていた上野
ドラマで描かれるように、終戦直後の上野など各都市のターミナル駅には行き場をなくした戦災孤児、浮浪児があふれかえっていました。
中央公論新社「昭和時代(敗戦・占領・独立)」には、終戦当時の各地の闇市や浮浪者について以下のように書かれています(引用)。
・各地のターミナル駅では、ボロ布のような服を着て、虚ろな目をしてしゃがみこむ「浮浪児」や「浮浪者」の姿が目立った。親兄弟を失った戦災孤児の多くは、行き場を失い、靴磨き、タバコ売りなどで、わずかな収入を得ていた。
・厚生省の統計では、浮浪児は1946年(昭和21年)8月段階で全国で推定4000人と言われたが、実数ははるかに多いとされている。政府は、「狩り込み」と言われる浮浪児狩りをして施設などに収容した。
・「死の行進」として餓死のニュースも伝えられた。朝日新聞(45年11月18日付)によると、<上野駅で処理された浮浪者の餓死体は、先月(10月)の平均で一日2.5人> <名古屋市役所が敗戦以来(11月)14日までに仮埋葬した餓死者は72名>、大阪市内では<8月60名、9月67名、10月69名>と、増加の一途をたどっていたという。
これらの文章には「上野駅地下道で身を寄せ合う戦災孤児たち(1946年12月30日撮影)」の写真も添えられています。暗く寒い地下道でボロ布をかぶった多数の子供達が身を寄せ合って寝ている姿に、胸が締め付けられる思いがします。
このように、「なつぞら」で描かれる終戦直後の上野界隈の様子や、「地下道で寝泊まり」「靴磨きで日銭稼ぎ」といったなつたち兄妹の悲惨な境遇は、実話に基づいた描写といえます。上野駅で日々餓死者が出ていたことからも、なつたちの境遇がいかに厳しいものだったかがわかります。
上野の闇市=現在のアメ横付近
▼Y字路のようになっている三角地帯に建つ「アメ横センタービル」。朝ドラ「あまちゃん」ではこの建物の二階部分に「東京EDOシアター」が入っているという設定でした。
戦後、新宿東口の「尾津組マーケット」を皮切りに秋葉原、池袋、新橋、船橋など(関西では大阪梅田、天王寺など)主要ターミナル駅付近に次々に出現した闇市。現在では多くの場所でその面影はありませんが、商店街や繁華街へと姿を変え、引き続き人々を惹きつける土地になっています。
通称「アメ横」として愛されている上野駅近くガード下周辺の商店街も、かつてはバラックが立ち並ぶ闇市としてカオスな賑わいを見せた場所でした。「なつぞら」でなつたちがさまよっていたのは、この近辺ということになります。
治安の乱れやぼったくりの横行など、無法地帯状態だった上野の闇市の存在に手を焼いた当局は、実業家・近藤広吉氏に頼み、現在の「アメ横センタービル」がある三角地帯に「近藤マーケット」を作らせています。
魑魅魍魎の怪しい商人たちを排除した「近藤マーケット」の出現により、次第に一帯は秩序を取り戻し、現在の繁華街「アメ横」への発展がスタートしています。
なお、「アメ横」こと「アメヤ横丁」の呼称はこの時期に中国からの引揚者が飴を販売し、甘味に飢えていた庶民に好評となったからとする説があります。