「おちょやん」鶴亀新喜劇 モデルは松竹新喜劇 参加メンバーは?

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NHK連続テレビ小説「おちょやん」で登場する新しい劇団・鶴亀新喜劇(つるかめしんきげき)についてまとめます。

鶴亀新喜劇は、渋谷天外、浪花千栄子、藤山寛美らが活躍した実在の劇団・松竹新喜劇がモデル。日本の喜劇シーンにおいて重要な役割を果たした渋谷天外、浪花千栄子、藤山寛美らの足跡をなぞりながら、「おちょやん」の物語が描かれていきます。

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目次

戦後に発足 鶴亀新喜劇

道頓堀が焼け跡と化した終戦から3年。鶴亀株式会社の大山鶴蔵社長(中村鴈治郎)は、再建された「新えびす座」に客を呼ぶための新しい劇団・鶴亀新喜劇を発足させます。万太郎(板尾創路)が喉頭がんにより亡くなり、新たな喜劇界の枠組みが求められる中で立ち上がった新劇団構想でした。

新劇団の座長には一平(成田凌)が抜擢。須賀廼家千之助(星田英利)や満州から帰ってきた松島寛治(前田旺志郎)ら家庭劇の面々が中心となり、鶴亀歌劇団出身の朝日奈灯子(小西はる)、万太郎一座から若手の須賀廼家万歳(藤山扇治郎)、須賀廼家千兵衛(竹本真之)らが合流。新たな劇団がスタートしていきます。

戦後に発足 松竹新喜劇

鶴亀新喜劇のモデルになっている松竹新喜劇は、喜劇王・曾我廼家五郎(万太郎のモデル)が喉頭がんで亡くなったことを受けて1948年(昭和23年)に発足しています。

新劇団には松竹家庭劇から曾我廼家十吾(千之助のモデル)ら、五郎劇から曾我廼家大磯、秀蝶、小次郎、明蝶、五郎八ら、それに、松竹家庭劇から脱退していた渋谷天外が立ち上げた劇団すいーと・ほーむから2代目渋谷天外、浪花千栄子、宇治川美智子、長谷川稔、藤山寛美らが合流。

伝説的喜劇人・曾我廼家五郎亡き後の「業界大再編」という形で、松竹と2代目渋谷天外の主導により松竹新喜劇が誕生しています。

天外、千栄子、そして寛美の時代へ

松竹新喜劇は1948年(昭和23年)12月に道頓堀・中座で旗揚げ公演を行っています。

発足当初は、五郎劇出身の女形と女優が舞台で同居するなどのチグハグさを見せ、「寄せ集め劇団」の弱点を露呈。加えて十吾や五郎劇出身の古い芸人らが幅を利かせたために天外が思うような台本を書けず、人気は低空飛行を続けました。

しかし、松竹社長・白井松次郎(大山鶴蔵のモデル)の「今辞めたらそれきりだよ」「心配なしに続けなさい」といった言葉に後押しされ、低調な劇団に嫌気が差した古い芸人たちが辞めていったこともあり、次第に天外の脚本に冴えが見え始めます。

天外と千栄子が破局

やがて浪花千栄子(千代のモデル)が看板女優となり劇団の人気を引き上げていきますが、天外が劇団内の女優・九重京子(朝日奈灯子のモデル?)と浮気の末に妊娠させてしまい、これに激怒した千栄子が劇団を退団し離婚。芝居の世界から姿を消してしまいます。

それでも松竹新喜劇は酒井光子をはじめとした新進女優が台頭し、天外の代表作となる「桂春団治」が生まれるなどピンチを克服し、人気は不動のものとなっていきます。

藤山寛美が台頭 人気絶大の劇団に

そして、松竹新喜劇の歴史を大きく変えたのが、天外の愛弟子だった藤山寛美(松島寛治のモデル)でした。

松竹家庭劇、劇団すいーと・ほーむと渡り歩き、天外の下で力をつけていた寛美。天外と十吾の黄金コンビがついに決別して十吾が松竹新喜劇を退団すると(昭和31年)、その隙を縫うように寛美が台頭。

亡き曾我廼家五郎を思わせる涙と説教臭あふれる芸風により、寛美は押しも押されぬ看板俳優となり、松竹新喜劇は昭和30年代に当代きっての人気劇団に成長していきます。

寛美は借金問題などがこじれて一時劇団から追放されたりもしましたが、昭和40年の舞台公演中に脳溢血の発作で倒れた天外に代わり、名実ともに新喜劇の実権を掌握。上方演芸史に残る人気俳優として君臨しました。

天外、千栄子、十吾、そして寛美らが礎を築いた松竹新喜劇は、こんにちも広く愛される劇団として存在しています。

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