【おちょやん】天海一平(成田凌) モデルは二代目・渋谷天外

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NHK連続テレビ小説「おちょやん」に登場する役者・天海一平(あまみ・いっぺい)の人物像をまとめます。

天海一平は実在の喜劇役者・渋谷天外(二代目)がモデルになっていますので、その半生をまとめます。

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目次

喜劇界のプリンス・天海一平

天海一平は、人気喜劇一座「天海天海一座」の座長・天海天海(あまみ・てんかい)を父に持ちます。

父は酒好き女好きで、一平はそんな奔放な父が大嫌い。幼少期から父に従い嫌々子役をやっていた一平でしたが、早くに父を亡くすと、次第に喜劇界のプリンスとして新しい喜劇を作る喜びに目覚めていきます。

私生活では芝居茶屋でお茶子をしていたヒロイン・竹井千代と出会い、後に旗揚げされる「鶴亀家庭劇」にともに参加。二人はやがて結婚し、二人三脚で喜劇界で奮闘していきます。

戦後、空襲の焼け跡から「鶴亀新喜劇」を復活させ、千代は看板女優として活躍を見せますが、一平のある行動により結婚生活は危機を迎え…。

喜劇役者 二代目・渋谷天外

天海一平は、大正から昭和の時代に活躍した喜劇役者、二代目・渋谷天外がモデルになっています。

人気喜劇役者だった初代・渋谷天外を父に持つ天外。子役から喜劇役者となり「松竹家庭劇」「すいーと・ほーむ」、そして現在まで続く「松竹新喜劇」を牽引したことで知られます。

また、喜劇王・藤山寛美の才能を見出し、師匠格として寛美を導いたのも天外でした。私生活では女優の浪花千栄子と結婚、離婚を経験しています。再婚相手である喜久栄夫人(元女優)との間に二人の子どもがおり、次男が三代目・渋谷天外を継いでいます。

【おちょやん】千代と天海一平は結婚、離婚をするの?モデル夫婦は浪花千栄子と渋谷天外

以下、二代目・渋谷天外の喜劇役者人生、生涯の盟友でライバルの曾我廼家十吾との関係などをまとめます。少し長いので、お暇な時にお読みください。

あいまいな出生 父に不信感を抱き続ける

渋谷天外(本名・渋谷一雄)は、明治39年に喜劇役者の初代・渋谷天外の長男として京都祇園に生まれています。生母は祇園の芸妓を相手とする髪結いだったそうですが、天外は母を知らずに育っています(6歳頃まで養母・北村ウノのことを実母だと思っていた)。

これは、独自の喜劇団づくりを急いでいた松竹兄弟が、初代・天外(当時は鶴家団治の名で俄の舞台に立っていた)をスター役者に仕立て上げようと白羽の矢を立てた際に妻子がいるのはまずいとなり、髪結いの女性と別離したことが原因。

新劇団を作るための犠牲として実母と引き裂かれたという事実を天外は後年になって知るのですが、長年父に対するわだかまりは消えなかったそうです。

父の急死 芝居茶屋の食客に

父である初代・渋谷天外は喜劇団・楽天会を率いて活躍した人気役者であり、天外は幼少期に急病子役の代役として(嫌々)楽天会の舞台デビューを果たしています。

人気役者(初代)のボンボンとあって芝居仲間などから大切に扱われた天外でしたが、大正5年の公演中に父が急死すると事態が一変。父の贔屓筋だった道頓堀の芝居茶屋・岡島に食客(居候の身)として引き取られています。

岡島では三味線や踊りを習わされるなど、親の七光りにより大切に扱われた天外。しかし、楽天会の失速(後に解散)や自身の年齢的成長による子役としての需要の喪失などもあり、次第に居場所を失っていきます。思春期の天外は博打や女性を覚え、放蕩無頼の自堕落な日々を送っています。

曾我廼家十郎から励まされ脚本を書き始める

悩み多き思春期を送った天外を変えたのが、曾我廼家兄弟劇を立ち上げて日本の喜劇の草分けとなった大御所・曾我廼家十郎でした。

天外は17歳の時に病気療養中だった十郎を見舞うと、十郎から「喜劇に生きるなら脚本を書け」と励まされ、処女作となる脚本「私は時計であります」を書き上げています。

その後も十郎の手ほどきを受けながら脚本を書き続けた天外。こうした活動が松竹重役・多田福太郎の目に留まると、松竹傘下の新劇団・志賀廼家淡海一座に脚本家兼役者として所属が決定します。

従来の女形を使わずに女優を起用するなど天外は喜劇の改革を掲げますが、出番を失った女形に呼び出されてボコボコにされるなど「若気の至り」ともとれる血気盛んな時期を過ごしています。

生涯のライバル・十吾との出会い 「松竹家庭劇」へ

天外にとって転機となるのが、十郎により紹介された曾我廼家十吾(十郎の弟子。当時は曾我廼家文福)との出会いでした。

分福茶釜一座、五郎劇などで活躍を見せていた十吾。名人役者であり脚本も多数書いていた十吾と天外は不思議と馬が合ったようで、二人は喜劇論を交わす仲になっていきます。

やがて大阪松竹から新劇団・松竹家庭劇の結成を持ちかけられた十吾は、すっかり仲が良くなっていた天外を片腕として誘います。松竹家庭劇は助っ人として新派の俳優、女優(この中に浪花千栄子もいた)らも合流し、昭和3年に旗揚げされます。

客の不入りや天外と十吾との衝突など波乱もありましたが、お婆さん役が人気となった十吾の主導により「家庭劇(=ホームドラマ要素のある喜劇)」というスタイルを確立。昭和16年には家庭劇に助っ人としてやってきた新派の子役・藤山寛美に天外が目を付け、寛美を家庭劇に誘っています。

▼最初の結婚相手・浪花千栄子(ヒロイン・千代のモデル)とは家庭劇時代に親密になり結婚。すいーと・ほーむ、新喜劇と、二人三脚で劇団を支え続けました。後に天外が新喜劇女優・九重京子と浮気をしたことにより二人は破局。

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独自劇団「すいーと・ほーむ」→「松竹新喜劇」誕生

新しい喜劇のスタイルを求めた天外と、伝統的を重んじる十吾はたびたびぶつかっていきます。

そして戦後の昭和21年。すき焼きの食べ方に端を発して二人は大喧嘩となり、ついに天外は松竹家庭劇を退団。天外は独自の劇団すいーと・ほーむを作り、中国四国近畿一帯を巡業しながら座長として貴重な経験を積みます。

昭和23年に五郎劇の大御所・曾我廼家五郎が亡くなると、喜劇界の大再編となる新劇団・松竹新喜劇の構想が立ち上がります。

松竹家庭劇、すいーと・ほーむ、そして五郎劇の残党が一同に集まると、座長・十吾のもと、松竹新喜劇はスタートしています。

十吾が退団 藤山寛美が松竹新喜劇のスターに

松竹新喜劇の初期は十吾のおばあさん役や女優・浪花千栄子、酒井光子らが人気となります。

天外も脚本「桂春団治」を書き上げて評価を上げると、イプセン「民衆の敵」や谷崎潤一郎の「細雪」など文芸作品の劇化に挑戦。次第に天才・十吾も嫉妬する活躍を見せていきます。

劇団の実権が天外に移りつつあることに苛立ちをつのらせた十吾は、昭和31年2月に松竹に退団届を提出。またしても盟友の十吾と天外は決別をしてしまいます。

この時、天外が十吾の穴埋めとして起用したのが愛弟子だった藤山寛美でした。天外の目論見は当たり、松竹新喜劇は昭和30年代以降、寛美を中心にして屈指の人気劇団となっていきます。

昭和40年、舞台の公演中に天外は脳溢血の発作で倒れてしまいます。その際、天外は寛美に「寛ちゃん、あとをたのむで」と言い残し病院に運ばれたとのこと。これ以降、松竹新喜劇は名実ともに藤山寛美が牽引する劇団となっていきます。

天外は手が不自由になるなど後遺症を抱えながらも舞台に復帰。昭和45年には生涯の盟友・十吾と15年ぶりの共演を果たすなどし、往年の観客を喜ばせています。やがて天外は舞台から退き、引退から9年後の昭和58年に亡くなっています。

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