NHK連続テレビ小説「らんまん」最終週(第26週)のタイトルは「スエコザサ」。
牧野富太郎はこの「スエコザサ」にある思いを込めて命名していますので、ドラマの結末もある程度予見できそうです。この記事はネタバレを含みますのでご注意ください。
【らんまん】最終週の週タイトルは「スエコザサ」
1923年(大正12年)の関東大震災をキッカケに、東京郊外の大泉村(現在の練馬区東大泉)に移住した万太郎と寿恵子。最終週では時代が1927年(昭和2年)夏に進み、万太郎は65歳、寿恵子は62歳前後になっています。
万太郎は波多野の推薦により東京帝国大学から理学博士の学位が授与されるなど、長年の研究が大きな実りとして結実しつつありました。
しかし、この頃になると寿恵子は急須を落としてしまうなど体調が急速に悪化。病院に診てもらったところ原因も治療法もわからない難病とのことで、槙野家の人たちは心配を募らせます。万太郎は仲間たちに協力を依頼し、寿恵子のために図鑑の完成を急ぐことになります。
気になる最終週のサブタイトル「スエコザサ」ですが、これは万太郎のモデル・牧野富太郎が早くに亡くなった妻の壽衛子(すえこ)に感謝を込めて、新種の笹に命名したものです。
壽衛子は1928年(昭和3年)2月に亡くなっていますので、まさに最終週の時代設定と一致。「スエコザサ」をタイトルに掲げた「らんまん」最終週は、少し切ないラストを迎えてしまいそうです。
以下、史実における妻・壽衛子の晩年や「スエコザサ」の命名経緯などをざっとまとめます。
【史実ネタバレ】志半ば、54歳で亡くなった妻・壽衛子
関東大震災から3年後の1926年(大正15年/昭和元年)5月。
牧野富太郎・壽衛子夫妻は東京府北豊島郡大泉村(現在の練馬区東大泉)に土地を購入して一軒家を建て、都心部から郊外の東大泉に移り住んでいます。この移住は、都心部でまた大火事が起きて夫の標本類が燃えてしまっては大変だと考えた壽衛子の発案だったそうです。
当時52歳前後になっていた壽衛子は、この東大泉の家を終の棲家、そして標本館を中心とした牧野富太郎の植物園にしようという壮大な夢を描いていました。
ところが、植物園構想も道半ばだった1928年(昭和3年)2月23日、壽衛子は病気により青山の病院で亡くなってしまいます。東大泉に引っ越してわずか2年弱、まだ54歳の若さでした。闘病期間も考えれば、東大泉の新居に住んだ時間はわずかだったと考えられます。
【史実ネタバレ】感謝を込めた新種「スエコザサ」
▼東京谷中の天王寺墓地にある牧野富太郎・壽衛子の墓。壽衛子の墓碑の表面には「家守りし 妻の恵みや わが学び」「世の中の あらん限りや スエコ笹」という富太郎による2つの感謝の句が刻まれています。お墓の横にある「墓誌」には富太郎の子どもたちの名前も。
資料によっては当時の富太郎は相変わらず女遊びに興じ、妻の病気も放ったらかしだったなどという説もあるようですが、以下は牧野富太郎の自叙伝(自己申告)を参考に書きます。
長年苦労をかけた末に若くして亡くなってしまった妻に対し、深い感謝の念を抱いていたという富太郎。
ちょうど壽衛子が重態の状態にあった時に仙台から持ってきていた新種の笹があったので、富太郎はこの笹に妻への感謝を込めて「スエコザサ」と命名。学名を「ササ・スエコヤナ」として発表し、永遠に植物の名前として妻の名を残しています。
富太郎はこの「スエコザサ」を妻の墓(谷中・天王寺墓地)に植えてやろうと思い東大泉の庭に移植しておいたそうで、それが勢いよく繁茂し、庭に定着しています。
牧野富太郎の終の棲家は現在「練馬区立牧野記念庭園」となっており、園内には富太郎の思いが込められた「スエコザサ」が今も残ります。
富太郎は壽衛子が亡くなってから29年後の1957年(昭和32年)に94歳で亡くなっています。もとより壽衛子は富太郎の11歳年下でしたので、94歳まで生きた富太郎と比べるとずいぶんと早くに亡くなってしまったことになります。
おそらく「らんまん」最終週でも寿恵子との別れ、万太郎による「スエコザサ」の命名が描かれるものと思われます。万太郎は床に伏せる寿恵子を残して北海道帝国大学のマキシモヴィッチ博士生誕100年記念講演に出席することになりますが、その帰路(仙台?)で「スエコザサ」を発見する流れになると予想します。
最終回では亡き愛妻に伝えきれぬ感謝の念を抱く万太郎の姿が、ラストシーンになるのではないでしょうか。
▼現在は住宅に囲まれている東大泉の「牧野記念庭園」。壽衛子が富太郎の研究成果を守るために、当時は何もない田舎だったこの土地を選んだわけです。園内には今も「スエコザサ」が繁茂しています。