大河ドラマ「青天を衝け」橋本左内(小池徹平) 西郷隆盛も認めた男の早すぎる死

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NHK大河ドラマ「青天を衝け」に登場する福井藩士・橋本左内(はしもと・さない)の人物設定や、これから辿ることになる運命についてまとめます。

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医学の道から松平慶永の腹心に

橋本左内は、越前国福井藩医・橋本長綱の長男として天保5年(1934年)に生まれています。

少年時代から聡明だった左内は、15歳の時に大坂に出て蘭学の私塾「適塾」に入ると、日本の近代医学の祖・緒方洪庵に師事して医学を習得しています。

19歳の時に父の病気により一度は帰藩し、父の死後には藩医となるものの、その後江戸に遊学。蘭方医学を学ぶ傍らで藤田東湖、西郷吉之助(隆盛)、梅田雲浜、横井小楠ら諸藩の重要人物たちと交流を深めています。西郷隆盛は同世代の才能ある思想家として左内の名を挙げるなど、二人の交流は長く続いています。

やがて医学よりも激動の時勢に興味を傾けた左内。福井藩主・松平春嶽(慶永)に側近として登用されると、春嶽が設立した藩校・明道館(現在の県下名門・藤島高校に連なる学校)の御用掛り・学監同様となるなど、春嶽の藩政改革を手助けする腹心となっていきます。

▼橋本左内を演じるのは、大阪府出身の俳優、歌手・小池徹平(35歳)。ドラマ「ごくせん」「ドラゴン桜」「鬼嫁日記」「医龍-Team Medical Dragon-」やNHK朝ドラ「あまちゃん」など多数作品に出演。大河ドラマは初出演。

運命を変えた「一橋派」と「南紀派」の対立、安政の大獄へ

やがて第14代将軍を巡る将軍継嗣問題(徳川慶福vs徳川慶喜)が勃発し、主君の春嶽が徳川慶喜を推す一橋派に属すと、左内は徳川慶喜擁立運動に奔走。既存の幕藩体制は維持したままで西欧の技術導入、積極的な対外貿易の推進、ロシアとの同盟などを掲げ、春嶽の右腕として活躍します。

川路聖謨、武田耕雲斎、西郷隆盛らから称賛を浴びるなど将来を期待されていた左内でしたが、井伊直弼が大老の座に就き「安政の大獄」が始まると、悲しい最期を迎えることになります。

徳川慶福を推す南紀派だった井伊直弼らが、対立した一橋派の主要人物を次々に弾圧していった安政の大獄。松永春嶽が隠居謹慎を命じられると、左内も幽閉され、謹慎を命じられます。

左内は取り調べに対し将軍継嗣問題では「私心ではなく藩主(春嶽)の命令だった」と主張しますが、これが井伊直弼の癇に障ったようです(当時は主君を庇うのが家臣としての当然だという武士の風潮があった)。

結局、遠島で済むはずだった刑罰は重くなり、左内は死罪を言い渡されてしまいます。

泣きながら逝った 無念の死

左内としては、まさか自分が死罪になるとは思ってもみなかったようです。

若く才能豊かで、清廉潔白な性格により人望も厚かった左内。斬首が行われる際には牢名主が涙ながらに「自分が身代わりになれたらよいのに」と言ったというエピソードが残るほどに、惜しまれながらこの世を去っています。まだ26歳だった左内は、無念のあまり泣きじゃくりながら死んでいったともされます。

いわゆる「倒幕派」ではなく、幕藩体制を維持した上での新しく開明的な国家像を思い描いていた左内。もし左内が生きていたら、どんな形で明治新政府と対峙していたのか、そんな「もしも」を考えてみたくなる人物です。

▼左内15歳の時に書かれたという「啓発録」。去稚心(稚心を捨てる)、立志(志を立てる)、択交友(交友を選ぶ)など5つの項目を軸に生き方の指針がまとめられており、現代にも通じる人生論となっています。

▼福井市左内町にある「左内公園」には、橋本左内像が建てられています。この地は左内の遺骸が納められた善慶寺(空襲で消失、妙経寺に併合)があった一帯です。

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