NHK連続テレビ小説「ブギウギ」第18週では、妊娠中のスズ子がジャズミュージカルの舞台「ジャズカルメン」に出演する様子が描かれます。
この「ジャズカルメン」は笠置シヅ子主演により実際に公演された舞台です。当時恋人の吉本穎右との結婚を決意していた笠置シヅ子は、この舞台をもって引退するつもりだったとか。その詳細などをまとめます。
【ブギウギ】羽鳥善一が発案 スズ子主演の舞台「ジャズカルメン」
恋人の村山愛助(水上恒司)との結婚の条件として、歌手を辞めて愛助を支えることをトミ(小雪)から求められた福来スズ子(趣里)。
愛助と一緒になるために「ワテ、歌手やめよかなあ…」と心が動き始めるスズ子でしたが、そんなスズ子の気の迷いを必死に押し留めようと説得してくれたのが、師匠の羽鳥善一(草彅剛)と愛助でした。
羽鳥はスズ子の家を訪ねると、オペラの名作「カルメン」を題材としたジャズミュージカル「ジャズカルメン」の主演をスズ子に打診します。
喜劇王・タナケン(生瀬勝久)とスズ子の喜劇「舞台よ!踊れ!」を見た羽鳥は、どうしてもスズ子主演でこの「ジャズカルメン」をやりたくなったのだそう。それを聞いた愛助も「羽鳥先生とまったく同意見や!スズ子さんのカルメン、世界で一番に見たいと思ってる」と激しく賛同。二人の熱意が心に響いたスズ子は歌手を続ける決意をしています(第17週)。
第18週では、愛助の子を身ごもったスズ子が身重の状態で「ジャズカルメン」の稽古に臨み、見事に公演を成功させていく様子が描かれていきます。
スズ子はオペラ「カルメン」で歌われるアリア(独唱曲)「ハバネラ(恋は野の鳥)」を劇中で歌い上げ、舞台は大好評に。しかし、スズ子が誰よりも舞台を見てほしかった愛助は、病気の治療をするために大阪に戻ったまま。なかなか東京に戻って来られない愛助の病状が心配になったスズ子は…。
▼「ジャズカルメン」でスズ子が歌ったのは、オペラ「カルメン」で歌われるアリア「ハバネラ(恋は野の鳥)」。
【史実モデル】妊娠中だった笠置シヅ子主演の舞台「ジャズカルメン」(1947年)
1947年(昭和22年)2月、笠置シヅ子(福来スズ子のモデル)は服部良一(羽鳥善一のモデル)の提案により、服部が音楽を担当する日本劇場(日劇)のジャズミュージカル「ジャズカルメン」に主演。有楽町の高架下で生きる「カルメンお静」役を演じています。
敗戦後すぐの時代とは思えない豪華な舞台セットや、出演者勢ぞろいでのキューバの民俗舞曲「ハバネラ」にのせた圧巻のジルバの踊りなど、豪華で華やかな「ジャズカルメン」は大成功を収めています。
当時のシヅ子は恋人・吉本穎右との子を身ごもっており、妊娠5ヶ月目の状態でした。服部良一をはじめ周囲の人々は身重のシヅ子をハラハラしながら見守ったと伝わります。
※オペラ「カルメン」は19世紀のフランスの作曲家・ジョルジュ・ビゼーが作曲した、フランス語による名作オペラ。恋多きジプシーの女・カルメンと、彼女に誘惑、翻弄され道を踏み外してしまう竜騎兵長・ドン・ホセを中心とした物語です。
【史実モデル】「ジャズカルメン」を最後に引退、結婚を決意していた笠置シヅ子
この「ジャズカルメン」に出演した1947年当時、笠置シヅ子の私生活は激動の連続でした。
公演直前の1947年1月には、恋人の吉本穎右が悪化する肺結核の治療のために兵庫県西宮市の実家に帰郷。シヅ子は1月14日に東京駅で穎右を見送っていますが、これが愛する恋人との今生の別れとなってしまいます。
この時シヅ子はすでに穎右との子を身ごもっており、「ジャズカルメン」の公演がスタートする頃には新聞や雑誌が「カルメン妊娠す」「腹ボテのカルメン」などと書きたてています。
シヅ子は、この「ジャズカルメン」の舞台を最後に芸能活動、歌手活動を引退することを決意していました。結婚を誓いあった穎右は吉本興業の後継者と目された人物であり、穎右と約束の上で、シヅ子は穎右を支える新しい人生を歩もうと考えていたのです。
シヅ子は舞台を無事に終えると東京都芝区の桜井病院に入院し、出産の準備に入っています。しかしそんなシヅ子のもとに、5月19日に穎右が急逝したという悲報が入ります。穎右はまだ24歳という若さでした。その直後の6月1日、シヅ子は悲しみの中で長女のヱイ子を出産しています。
もし吉本穎右が生きていたら…。シヅ子は本当にこの「ジャズカルメン」を最後に芸能界から退き、穎右の妻として吉本興業の女帝になっていたのかも知れませんね(※吉本興業の女帝で穎右の母・吉本せいも1950年に死去)。
皮肉なことに穎右が亡くなってしまったことで笠置シヅ子は歌手活動を続けることになり、この悲しい運命が「ブギの女王・笠置シヅ子」の誕生へと繋がっていくのです。