「らんまん」万太郎一家がロシア行き?牧野富太郎も頼ろうとしたマキシモヴィッチ博士

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NHK連続テレビ小説「らんまん」第18週より。田邊教授から植物学教室への出入りを禁止されてしまった万太郎は、寿恵子からの後押しを受けて、マキシモヴィッチ博士のもとで研究を続けようと一家でのロシア渡航を決意することになります。

このエピソードは、主人公のモデルである牧野富太郎がマキシモヴィッチ博士を頼ってロシアに行こうとした史実が元になっていますので、その経緯などもまとめます。

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目次

【らんまん】一家でのロシア行きを決意する万太郎

ムジナモの論文を巡り、田邊教授(要潤)から大学の植物学教室への出入りを禁止されてしまった万太郎(神木隆之介)。

研究の場を失ってしまった万太郎は、野田(田辺誠一)と里中(いとうせいこう)を訪ねて博物館で研究を続けさせてもらえないかと相談しますが、博物館は大学との協力関係が強く、受け入れは難しいと断られてしまいます。

しかし、万太郎に対し同士としての強い愛情を持つ野田と里中は「君の才能を認めている人は他にもいる」として、万太郎のことを高く評価しているロシアの植物学の権威・マキシモヴィッチ博士のもとに行ってはどうかと勧めます。

そうはいっても、万太郎は生まれたばかりの愛娘・園子と身重の寿恵子がいる身。

どうしたものかと悩む万太郎ですが、マキシモヴィッチ博士から自身の研究を激賞する手紙を受け取った万太郎は、思い切ってロシアに行きたい思いを寿恵子に打ち明けることになります。万太郎の言葉を聞いた寿恵子は、「あなたを認めてくださる人がいる。それが何よりも嬉しい」として意外にもロシア行きに前向きです。

こうしてロシア行きを決断する万太郎一家ですが、ロシア行きにはいくつかのハードルがありました。

まずはお腹の子を無事に日本で出産すること。その上で、費用の工面も考えなければなりません。万太郎は実家の峰屋に渡航費の相談をしようと考えますが、ちょうど峰屋では「腐造(ふぞう)」と呼ばれる酒造工程の重大トラブルが発生しており、それどころではないようです。

そんな折、愛娘の園子の身に重大な出来事が発生。それに加えてマキシモヴィッチ博士の身にも変化があり、念願のロシア行きが…。

【史実】教室追放後、ロシア行きを考えた牧野富太郎

万太郎のモデル人物である牧野富太郎も、マキシモヴィッチ博士を頼ってのロシア行きを考えていた時期がありました。

1890年(明治23年)、矢田部良吉教授から突然帝国大学(東京大学)植物学教室への出入りを禁止されてしまった富太郎は、植物学教室出身の親友である池野成一郎(「らんまん」の波多野に該当する人物か)の厚意を受け、一時的に駒場の農科大学に身を寄せてムジナモの研究を続行させていました。

この頃の富太郎は、矢田部教授の理不尽な仕打ちに深い失望感を抱いており、日本での研究活動の続行に限界を感じていたようです。

そこで思い立ったのが、ドラマ同様のロシア行きでした。富太郎は、以前から標本の送付などを通して交流を深め自身の研究活動に称賛の声を届けてくれていたロシアのマキシモヴィッチ博士を頼り、ロシアに渡ろうと考えたのです。

富太郎は東京・駿河台にあるニコライ会堂に行き教主に事情を話すと、教主はよろしいと言ってさっそくロシアに手紙を送ってくれたそうです。

※ロシアの植物学者でアジアの植物に精通していたマキシモヴィッチ博士。明治初期に函館に長く居たとのことで、日本の植物の研究も大変進んでいたそうです。まだ日本国内で学名を付けることが出来なかったという当時の事情もあり、富太郎はたびたびマキシモヴィッチ博士に標本を送り、学名を決めてもらっていました。マキシモヴィッチ博士は富太郎が出版した「日本植物志」に対し図が非常に正確であると賛辞を送るなど、たびたび厚意を寄せてくれていました。

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博士の急死でロシア行きは立ち消えに

しばらくすると博士の家族から返事が来ましたが、それによれば富太郎からロシア行きの依頼が届いた時期に、マキシモヴィッチ博士は流行性感冒に侵されて病床にあったそうです。マキシモヴィッチ博士は富太郎がロシアに来ることを大変喜んでいたそうですが、それから間もなくして肺炎により亡くなってしまったとのこと。

頼りにしていたマキシモヴィッチ博士が亡くなったとなれば、ロシア行きの意味もなくなってしまいます。こうして富太郎のロシア行きは立ち消えてしまったのです。

富太郎は自叙伝において、「私がもし当時マキシモヴィッチ氏の下に行っていたならば、私の自叙伝もこの先、全く異なったものとなったわけである」と語っています。良くも悪くもマキシモヴィッチ博士の急逝がその後の富太郎の人生を変えたと言えそうです。

富太郎はロシア行きを断念すると、矢田部教授の圧迫に抗して日本で研究を続行することを決意。親友である池野成一郎の助力などを受けながら「日本植物志」の続刊や「ムカデラン」の学名発表などを行い、在野の研究者として再び歩みを進めていくことになります。

※「らんまん」では愛娘・園子のある出来事が万太郎のロシア行きに大きな影響を与えることになります。史実ではこの出来事はロシア行き騒動の2年後に発生しており、このあたりの時系列は改変されてオリジナルストーリーとして再構築されています。

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