「らんまん」植物学教室の教授・田邊彰久(要潤) モデルは矢田部良吉教授

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「らんまん」で要潤が演じる、東京大学植物学教室の教授・田邊彰久(たなべ・あきひさ)。万太郎の人生を大きく変えることになる田邊彰久の人物像などをまとめます。

田邊彰久は、牧野富太郎に植物学教室への出入りを許した東京大学植物学教室の教授・矢田部良吉(やたべ・りょうきち)がモデルになっています。

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目次

植物学教室への出入りを田邊から許される万太郎

祖母・タキ(松坂慶子)から許しを得て、本気で上京して植物学を志すことになった万太郎(神木隆之介)。

竹雄(志尊淳)とともに再び新橋駅に降り立った万太郎は、博物館の野田基善(田辺誠一)の紹介により東京大学植物学教室の初代教授・田邊彰久(要潤)を訪ねることになります。

田邊教授はアメリカの名門・コーネル大学への留学経験があり、西洋文化にも造詣が深い(西洋かぶれな)人物。朝にはバイオリンを演奏し、日常的に英語交じりで会話をするなど、どこか威圧的な態度でエリート風を吹かせています。
【追記】アメリカ帰りの田邊教授は、鹿鳴館のプロデューサー的なお役目も任されているとか。

万太郎が土佐で行ってきた植物研究の成果や情熱を目の当たりにした田邊教授は、小学校中退の万太郎に対し偏見なしに接してくれた上に、植物学教室への出入りを許可してくれます。

植物学教室には、田邊教授や弟子たちが膨大な労力と費用をかけて日本中から収集した植物標本や資料などがあり、万太郎はそれらを自由に使うことが許されたのです。

万太郎の味方になるものの…

これにより、万太郎は植物学教室に通いながら、並行して植物採集も進めていくことになります。

やがて万太郎は藤丸(前原瑞樹)、波多野(前原滉)ら教室の学生とも意気投合。彼らとともに植物学の雑誌を作ることになると、田邊教授はこれを許可し「学会の機関誌にすればいい」と言って後押しをしてくれます。

在野の研究者であり何のバックボーンも持たない万太郎にとって、自身の研究活動に理解を示してくれる田邊教授は大きな味方になっていきます。

しかし、万太郎が力をつけていくと、それまで好意的だった田邊教授の態度に変化が見えてきて…。

▷要潤(かなめ・じゅん)…香川県出身の42歳の俳優。ドラマ「仮面ライダーアギト」「新・愛の嵐」「ヒミツの花園」「カンナさーん!」、映画「キングダム」などに出演。NHK「タイムスクープハンター」内のドラマ主演のほか、大河ドラマ「龍馬伝」「花燃ゆ」「青天を衝け」、朝ドラ「まんてん」「まんぷく」などNHKへの出演も多い。

著:長田 育恵, 監修:NHKドラマ制作班, 編集:NHK出版
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モデルは東大植物学教室の矢田部良吉教授

要潤が演じる田邊教授は、牧野富太郎(万太郎のモデル人物)と関わりがあった東京大学植物学教室矢田部良吉教授がモデルになっています。

※矢田部良吉(やたべ・りょうきち)は嘉永4年(1851年)、伊豆国韮山(現在の静岡県伊豆の国市)生まれの植物学者、理学博士、詩人。横浜で中浜万次郎(ジョン万次郎)らに英語を学び、少弁務使・森有礼(のち文部卿)に随行して渡米。アメリカ・コーネル大学でコーネル大学で植物学を学び、帰国後に東京大学理学部で初代植物学教授に就任。教室の整備、標本室の充実、小石川植物園の管理などに尽力。この頃に上京してきた牧野富太郎と出会い、植物学教室への出入りを許可しています。

後述しますが、西洋かぶれで失言も多い変わり者の教授として知られた人物です。また、明治新体詩の幕開けを告げる「新体詩抄初篇」の刊行に携わり、国語改良の一環としてローマ字表示を提唱したほか、演劇改良や音楽教育、女子教育にも力を注ぐなど文化面での活動も目立った人物です。

22歳で本格的に上京した富太郎は、土佐で描きためた「土佐植物目録」やたくさんの標本を抱えて東京大学植物学教室の扉をたたいています。※富太郎は3年前に博覧会見物のために初上京した際に、東京大学植物学教室を見学しています。

植物学教室の矢田部良吉教授や松村任三助手らは、四国の山奥から面白い男がやってきたとばかりに富太郎を歓迎。矢田部教授は、植物への深い知識と情熱を兼ね備えた富太郎のことを気に入ったようで、富太郎に対し教室への自由な出入りと資料・標本の閲覧を許可しています。

富太郎はこの植物学教室を拠点とし、念願の研究活動に没頭。教室で出会った学生の友人・市川延次郎、染谷徳五郎とともに、矢田部教授から許可と協力を得た上で「植物学雑誌」を創刊させるなど、充実した日々を送ることになります。

富太郎は「植物学雑誌」に次々と論文や植物画を発表すると、それまで存在しなかった日本国内の植物のデータベースとなる「日本の植物志」の必要性を感じ、これを一生の仕事にしようと決意。その出版のための印刷技術も学ぶとともに、生涯のパートナーとなる菓子屋の娘・壽衛子と結婚するなど、この時期(20代中盤)の富太郎は多忙ながらも情熱に満ちた日々を過ごしています。

やがて富太郎は、国内の研究者に大きな衝撃を与えることになる「日本植物志図篇 第1巻」を発表し(26歳)、日本で初めてとなる新種「ヤマトグサ」に学名を付けて発表(27歳)。続けて世界的にも珍しい食虫植物「ムジナモ」を日本で初発見する(28歳)など、植物研究者界隈でも知られる人物になっていきます。

矢田部教授、富太郎を出禁・追放

こうして矢田部教授のおかげもあり研究者としての道が開け始めた富太郎でしたが、やがて人生に暗雲が立ち込めていきます。

「ムジナモ」を発見し「日本植物志図篇 第1巻第6集」を発表した明治23年頃(富太郎28歳)になると、矢田部教授は突然富太郎に対し「自分もお前とは別に日本植物志を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せる事は断る」と宣告。

富太郎は日本の植物学発展のためにも宣告の撤回を求めますが、矢田部教授はこれを断固拒否。富太郎は植物学教室への出入りを一切禁止されてしまいます。

矢田部教授としては、これまで自分と弟子たちが長年の時間とお金をかけて収集してきた標本や資料などの膨大な成果を、「よそ者」の富太郎に横取りされているような感情があったのかも知れません。当初は富太郎を自宅に招いてご馳走し、富太郎の研究にも積極的に協力をしてくれていた矢田部教授ですが、いつしか感情のすれ違いが生じてしまったようです。

※この突然の出禁宣言には、富太郎が発見・発表したムジナモの存在が関係しているとの説もあります。

矢田部教授は富太郎が偶然発見した水草を見て「書物の中に思い当たるものがある」と発言。富太郎は矢田部教授の助言を受けて、それが世界的に珍しく日本では未発見だった珍奇な食虫植物であることを知っています。その後、富太郎が描いたムジナモの花の植物画がドイツの文献に引用されるなど、ムジナモの発表論文は富太郎の名を世界に広めるキッカケとなっていますが、この成果の独占(?)に対し矢田部教授が不快感を感じたのかも知れませんね。

【追記】また、教室の出禁の理由として富太郎が大学の標本を借りたまま返さなかったことが原因という話もあります。

矢田部教授に失望した富太郎は、矢田部教授の圧迫に屈せず戦い「日本植物志」を続刊していくことを決意。

知人の紹介によりなんとか駒場の農科大学で研究を続行する運びとなりましたが、郷里の家業「岸屋」の経営が傾き財産整理が必要となったために、一時的に帰郷をしています。

実家の豊富な財産と植物学教室の助力を受けて順調だった富太郎の研究生活ですが、一転して暗雲が立ち込めていきます。

その後の矢田部教授

土佐に帰郷し、いずれ再上京して矢田部教授を打ち負かすと息巻いていた富太郎ですが、意外な形で矢田部教授の「敗北」を知ることになります。

矢田部教授は大学内の勢力争いに破れた末に、明治24年(1891年)に突然大学を罷職されてしまったのです。富太郎が「牧野富太郎自叙伝 第一部」で語るところによれば、この罷職は富太郎追放の一件が原因ではなく、矢田部教授の過去の行いが災いしたのではないかとのこと。

※矢田部教授の過去とは?「牧野富太郎自叙伝 第一部」より。

・西洋かぶれであり、鹿鳴館のダンスに熱中していた ※布袋の仮装をして舞踏会に出席した写真が現存
・兼職で校長をしていた東京高等女学校の教え子を妻に迎えた
・過去の失言が物議を醸した
・「毎日新聞」で矢田部教授をモデルにした小説「濁世」が連載されるほど、クセのある人だった
※「濁世」は「改進新聞」での連載(明治22年)とする資料もあります。

矢田部教授は罷職後も植物志の製作を続けるために植物学教室に通い、「日本植物図解」を3冊出版しましたがそれも続かなかったようです。

大学を退いた後には高等師範学校の校長となるなど熱心に教育にあたったものの、明治32年(1899年)に鎌倉の海岸で水泳中に溺死するという悲しい最期を迎えたそうです。

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