「青天を衝け」振武軍の飯能戦争と平九郎の自害 飯能・能仁寺、平九郎茶屋、黒山(越生)など ゆかりの地まとめ

NHK大河ドラマ「青天を衝け」でも描かれるであろう飯能戦争。渋沢成一郎(喜作)、平九郎、尾高惇忠らは「彰義隊」次いで「振武軍」を結成し、飯能で新政府軍と対決。振武軍は大敗し、飯能の市街地の半分が焼失しています。

この記事では、飯能戦争ゆかりの地、それに渋沢(尾高)平九郎の敗走ルート、自害した黒山(越生)の場所などについてまとめます。

彰義隊→振武軍 新政府軍と激突

パリの万国博覧会に将軍の名代として出席する徳川昭武に随伴し、渋沢栄一がフランスへと渡航していた頃。

日本では大政奉還がおこなわれ、王政復古の大号令が発せられると、新政府軍(薩摩、長州、土佐藩ら)vs旧幕府軍の内戦「戊辰戦争」が勃発しています。渋沢成一郎(喜作)らも旧幕府軍側勢力として、この一連の戦いに参戦しています。

徳川慶喜が上野寛永寺に蟄居したことに不満を持った有志たちが慶喜の復権に向けて彰義隊(しょうぎたい)を結成すると、渋沢成一郎(喜作)が同隊の頭取となり、栄一の見立て養子となっていた渋沢(尾高)平九郎尾高惇忠らも結成に参画。

やがて成一郎たちは隊員と意見の食い違いを起こして彰義隊を脱退し、独自の振武軍(しんぶぐん)を結成。振武軍は、上野戦争で彰義隊に勝利した新政府軍と飯能で激突したものの、わずか半日で壊滅的な敗退を喫しています(飯能戦争)。以下、飯能戦争におけるゆかりの地をまとめます。

最初の本営 田無・西光寺(総持寺)

彰義隊と決別した渋沢成一郎、平九郎、惇忠らは、振武軍を結成すると青梅街道沿いの田無・西光寺(現在の東京都西東京市・総持寺)を本営としています。

ここで成一郎や惇忠らは隊士を集め、彰義隊が戦う上野(上野戦争)に向かおうとしますが、彰義隊敗戦の報を受けて田無に戻り、彰義隊の生き残りを吸収した1,500人で飯能・能仁寺へと向かっています。

▼青梅街道の宿場町として栄えた田無。振武軍が本営とした総持寺付近は、青梅街道と所沢街道が交差する交通の要所。

決戦の地 飯能・能仁寺

桃山期の名庭園であり日本の名園百選にも選ばれた池泉回遊式蓬莱庭園を持つ、飯能・能仁寺(埼玉県飯能市)。田無を出た振武軍は能仁寺に陣営を構築し、上野戦争で勝利を収め西進してきた新政府軍と激突しています(飯能戦争)。

振武軍は能仁寺の近くの観音寺、智観寺、広渡寺などにも兵を配置したほか、現在は軽登山の名所となっている天覧山の頂上に見晴台を設置。近隣の村々から兵を集めた上で新政府軍と戦いましたが、明け方から開始された戦闘はわずか数時間で決着。振武軍は壊滅し、飯能市街の半分が焼けるという大惨事を招いています。

▼天覧山のふもとにある能仁寺。背後には奥武蔵の山々が連なる、「関東平野の端っこ」で振武軍は戦っています。

平九郎の逃走劇 顔振峠の平九郎茶屋〜越生・黒山へ

新政府軍に大敗した振武軍。被弾して負傷した渋沢成一郎は尾高惇忠に抱えられて伊香保(現在の群馬県渋川市)へと逃れ、そこから徹底抗戦を貫いて箱館までを転戦しています(榎本武揚率いる旧幕府軍とともに戦った箱館戦争)。

一方、渋沢平九郎は成一郎や惇忠とはぐれてしまうと、山中を必死に敗走。変装した姿で顔振峠の茶屋(平九郎茶屋の名が今も残る)に立ち寄り、そこから黒山村(現在の埼玉県入間郡越生町黒山)に落ち延びています。

▼顔振峠(こうぶりとおげ)にある「平九郎茶屋」。この地に変装した平九郎が立ち寄り、茶屋の女性に秩父方面への逃げ道を教わったものの、平九郎は何かを感じたのか越生方面に逃げたとされます。


ようやく黒山までたどり着いた平九郎でしたが、そこで新政府方の広島藩神機隊監察・藤田高之一隊と遭遇してしまいます。平九郎は敵方3人に小刀で応戦しますが、右肩を斬られ、足に銃弾を受けた末に自害を決意。川岸の岩に座ると、観念の自刃を遂げています。

その見事な最期は地元・黒山の人々の語り草となり、脱走の勇士「だっそさま」として崇められ、首から上の病に効く神様として祀られています(全洞院)。また越生市街にある法恩寺には、新政府軍によって晒された平九郎の首が埋葬されています(渋澤平九郎埋首之碑)。

▼飯能市街から深い山を走り抜け、黒山の地で最期を迎えた平九郎。「自刃の地」すぐ近くの全洞院には平九郎の胴体が埋葬され、「だっそさま」として崇められています(渋澤平九郎埋首之碑)。観光名所「黒山三滝」も近い美しい場所。

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