NHK連続テレビ小説「らんまん」の劇中でたびたび登場している「吉也(きちや)」という言葉。
ドラマを最初から見ている方であればわかるかとは思いますが、突然出てくるこの「吉也」という言葉の意味がわからない方も多いかと思います。
この記事では、「吉也」の意味と寿恵子の母・まつの過去などをまとめます。
「吉也」は寿恵子の母・まつの芸者時代の源氏名
「吉也(きちや)」は、槙野寿恵子(浜辺美波)の母・まつ(牧瀬里穂)の芸者時代の源氏名、芸名です。
妹のみえ(宮澤エマ)とともに、幼少期から置屋で厳しく躾けられたというまつ。
いつしか美しい娘に成長したまつは、江戸有数の花街として発展していた柳橋(やなぎばし。現在の東京都台東区柳橋に存在した花街)で「吉也」の名で芸者になり、江戸・東京中に名を轟かせる人気芸者になったそうです。
「柳橋芸者の吉也」といえば、当時の華族や役人、財界の大物など上流階級の男たちの誰もが憧れるトップスターだったようです。
8月23日(水)放送の第103回では、みえが女将を務める新橋の料亭「巳佐登(みさと)」で仲居として働き始めた寿恵子があの「吉也」の娘だと判明し、土佐出身の大物実業家・岩崎弥之助(皆川猿時)が驚く様子が描かれています。
弥之助はかねてから「吉也」の存在に憧れを持っていたようで、初対面の寿恵子に対し「おまん、女将(みえ)の姪というたら吉也の娘かい!江戸に行ったお歴々から吉也の噂は聞いちょった。その辺の男じゃ手の届かん、東京には夢みたいなオナゴがおるがじゃゆうて…。ようやっとおまんを通して吉也に会えたなあ…」と感激しています。
そもそも寿恵子が鹿鳴館のダンス練習会にお呼ばれされたのも、寿恵子が「吉也」の娘だったからこそ。鹿鳴館でダンスの練習をしてくれる女性を探していた田邊(要潤)が、「吉也」の娘が居ると知ってすぐに連れてこい!と色めきだったのがキッカケでしたね。
【補足】なぜ源氏名が「吉也」という男っぽい名前なのか。芸者の名前が男っぽい理由は諸説あるようですが、
①江戸幕府は婦女子の人身売買を厳しく禁じており、法の網の目をかい潜るために男だと思われる名前をつけた。その名残。
②そもそも女性っぽい名前を付けてしまうと、旦那衆が芸者遊びをしていることがバレてしまうため、男っぽい名前を付けた。
などが挙げられるようですね。
「そんな古い名前、とうに捨ててる」過去を捨てたまつ
▼東京の華やかな暮らしから身を引き、今は文太とともに群馬・榛名山で暮らすまつ。
今も東京の上流階級にその名を轟かす「吉也」ですが、当の本人であるまつは「そんな古い名前、とうに捨ててる」(第31回)と発言しており、過去の栄光に未練はないようです。
まつは「吉也」時代に彦根藩の上級武士・西村氏に見初められて妾(めかけ)となり、一人娘の寿恵子を出産しています。
まつは西村家から良い扱いを受けて何の不自由もない暮らしをしていたそうですが、やがて西村氏が落馬により急死すると、まつは西村氏の正妻から手切れ金を渡され、葬儀にも出させてもらえずに西村家を去っています。まつはこの手切れ金を元手に、柳橋時代に知り合った菓子職人・阿部文太(池内万作)の協力を得て菓子屋「白梅堂」を開業させたのでした。
妾という立場の虚しさを経験したまつは、娘の寿恵子には長唄や踊りを一切教えず、寿恵子が自分と同じような道を歩まないように育てています。
姪っ子の寿恵子に玉の輿を全力で勧めていたみえと、地に足の付いた娘の結婚を切に願ったまつ。みえは新橋の有名料亭の主人・笠崎太輔(遠山俊也)と結婚して今も裕福な暮らしをしていますから、同じ姉妹でありながら結婚観が大きく違っているわけです。
結局まつは過去の名声を全て捨て、朴訥で誠実な菓子職人・阿部文太と再婚をしていますから、貧乏学者の万太郎と結婚した寿恵子とは似た者親子だと言えそうです。
※まつが寿恵子の鹿鳴館行きに頑なに反対したのも、まつが社交界の虚しさを嫌というほど知っていたからでしょう。また、陸軍に所属していた西村氏は西洋の軍隊にならって左から馬に乗るように指示され、それが原因で落馬をして亡くなっており、まつは「文明開化」に良いイメージを持っていなかったのかも知れません。