「カムカムエヴリバディ」横須賀の「たちばな」 再建者・経営者候補まとめ 元従業員・黒鉄が本命??

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NHK連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」4月6日(水)の第110回で、御菓子処「たちばな」を受け継ぐと思われる「㈱たちばな」が横須賀にあることが判明。経営者が誰なのか、ますます謎が深まっています。

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クリスマスフェスの協賛企業「㈱たちばな」

まずこの話の前提として、4月4日(月)の第108回に登場した「伏線」を理解しておかなくてはなりません。

第108回では、「クリスマス・ジャズフェスティバル」を翌日に控え、錠一郎、るい、トミーがジャズ喫茶「ディッパーマウス・ブルース」に到着する様子が描かれています。

店に到着したトミー(早乙女太一)は、壁に貼られた「クリスマス・ジャズフェスティバル」のポスターに目をやりますが、そこにはイベントの協賛企業として「㈱たちばな」の名前が印刷されていました。

これに先駆けて3月17日(木)の第96回では、亡きマスター・定一の遺影のお供え物として「御菓子処 たちばな」と書かれたウグイス色の包装紙にくるまれたおはぎが登場。「たちばな」が何者かにより再建されている可能性が浮上しています。

「㈱たちばな」がイベント会場におはぎを提供か

そして4月6日(水)の第110回。「クリスマス・ジャズフェスティバル」の会場の各テーブルでは、イベントのスポンサーから提供されたというおはぎが振る舞われました。

マスターの健一(世良公則)によれば、このスポンサーは「横須賀におった時からのお気に入りの店」であり、「岡山の百貨店にも入ってるんですよ」のこと。

前述したように「クリスマス・ジャズフェスティバル」の協賛企業(スポンサー)に「㈱たちばな」の名前がありましたので、このおはぎは恐らく「㈱たちばな」が提供してくれたものなのでしょう。

健一は復員後に岡山に戻らず数年間(復員〜昭和26年まで)を横須賀で暮らしており、その頃に「㈱たちばな」の御菓子がお気に入りだったようです。※昭和26年に定一と再会した後にも、健一は横須賀で暮らしていた可能性があります。

何者かが「たちばな」を再建?思いつく候補者は…

話の流れからすると、戦災で焼失した岡山の「御菓子司 たちばな」を何者かが(昭和26年以前に)横須賀の地で再建していたということになりそうです。第96回で定一の遺影に供えられた「たちばなのおはぎ」も、この横須賀の「㈱たちばな」が岡山の百貨店に出店していたものを購入したのでしょう。

以下、横須賀で「たちばな」を再建した可能性がある人物を挙げてみます。当ブログでは「たちばな」元従業員の黒鉄が本命と予想しています。

【4月8日追記】最終回で、健一が安子に横須賀「たちばな」の再建者を明かしています。再建者の正体は黒鉄ではなく、金太から商売の楽しさを教わった「おはぎの少年」でしたねちょっと予想が外れてしまいました…。申し訳ございません。

▼【4月11日追記】

劇中で安子が手にした横須賀「たちばな」の挨拶状全文が公式ツイッターにアップされています。おはぎの少年こと高野信治氏によって再建された横須賀市若杉町の「御菓子司 たちばな」は創業50年を迎え、全国に20店舗以上の販売店を抱えるまでに成長しているとのことです。

安子がこの挨拶状を手にしたのが2004年と思われますので、創業は1954年(昭和29年)頃ということになりますね。やはり健一は、1951年(昭和26年)に父・定一と再会して以降も横須賀に住んでいた時期があったと考えられます。

また、このNHK公式のつぶやきに対し、横須賀市若松町に「たちばな」との共通点を感じる和菓子店「さかくら」が存在するとのリプライも寄せられています。「さかくら」さんの創業時の屋号が「金ちゃん」だったこと、おはぎが有名な店であることなど、「たちばな」「金太」のモチーフかも?と想像が膨らみます。

候補①岡山「たちばな」の3人の従業員たち(黒鉄、菊井、丹原)→黒鉄が本命か

戦前、岡山の「たちばな」には従業員3人(和菓子職人の菊井、丹原、黒鉄)が住み込みで働いており、橘家と家族同然の付き合いをしていました。

戦争が激化すると、菊井三郎(杉森大祐)、丹原茂(中村凜太郎)、黒鉄正治(松木賢三)の順に出征。その後は音信不通になっています。

戦後、横須賀・浦賀港には東日本最多の56万人以上の復員者(引き揚げ者)が到着したそうです。こうした復員者の中に菊井、黒鉄、丹原らが居り、横須賀の地に根付いて「たちばな」の味を引き継いだ可能性は十分にありそうです。特に、下記の理由により職人のリーダー格だった黒鉄が「たちばな」を再建させた可能性が高いと予想します。

11月18日の第13回では、従業員3人の中で最後の出征者となった「クロ」こと黒鉄正治が橘ファミリーと別れる場面が描かれています。「申し訳ありません大将。自分だけは最後まで店の力になりたかったんですが」と謝る黒鉄に対し、金太が「クロ、なげえ間ようやってくれた。ありがとう。持ってけ」と言って「たちばな」のウグイス色の包装紙にくるまれたおはぎ(?)を手渡しています。包みを受け取った黒鉄は神妙な顔で頭を下げています。

このウグイス色の包装紙は定一の遺影に供えられたおはぎとよく似たデザイン。金太から黒鉄への「バトンタッチ(暖簾分け)」を表現したシーンに見えなくもありません。

▼「たちばな」の味を受け継ぐのは安子、るい、ひなただけではありません。家族同然に苦楽をともにした黒鉄、菊井、丹原も「たちばな」の後継者となり得る存在であり…。左上から算太、小しず、金太、黒鉄、菊井、丹原。下段左からひさ、安子、杵太郎。

候補②安子とロバート → 時系列的にあり得ない…

ネット上で再建者の候補として挙がっているのが、岡山を去り渡米したとされる安子とロバート・ローズウッドです。横須賀といえばアメリカ海軍の基地がある軍港ですから、元軍人のロバートとも縁がありそうです。

とはいえ、戦地から帰り横須賀で暮らしていた健一が岡山の父のもとに戻ってきたのが昭和26年(1951年)のこと

安子がるいのもとを去った(ロバートとともにアメリカに渡った)のは健一が岡山に帰った直後であり、時系列的に安子とロバートが横須賀で店を再建させたとしても、その店を健一が愛用していたというのは辻褄が合いません。追記:健一は昭和26年以降も横須賀に暮らしていた時期がありそうです。

そもそも健一と安子は面識がありますから、横須賀で安子が「たちばな」を再建させていればすぐに気が付くはずです。

※復員後の昭和23年から昭和26年までを岡山・雉真家で暮らしていた算太も再建者候補者から除外してもいいかと思います。

追記:4月7日の第111回で、安子はるいと決別後すぐにロバートとともにアメリカ・シアトルに渡ったことが判明。横須賀「㈱たちばな」の再建者ではなさそうですね。

候補③おはぎの少年 → 年齢的にあり得ない…?

もう一人候補になりそうなのが、昭和20年(1945年)に金太が焼け野原で商売の面白さを教えた「おはぎの少年」(山之内亮)です。

とはいえ、健一が横須賀に住んでいた昭和26年(1951年)までの間に、幼かった少年(当時5〜6歳前後か)が横須賀に渡って「たちばな」を再建するというのは事実上不可能かと思われます。そもそも少年は金太から商売の楽しさは教わりましたが、あんこの作り方は伝授されていません。

どちらかというと、岡山の百貨店に出店している「たちばな」の経営に「おはぎの少年」が関わっている可能性がありそうですが…。

【4月8日追記】昭和20年当時、6歳前後(もしかしたら10歳前後だった?)に見えた少年。健一が横須賀を去る昭和26年より前に「たちばな」を再建したのであれば、かなり若い段階で起業をしたということになりますね。

追記:横須賀たちばなは、昭和29年(1954年)頃の創業と判明。健一は、昭和26年より後も引き続き横須賀に住んでいたか、後年に定一が亡くなったタイミングなどに一時的に横須賀に住んでいた時期があったのかも知れません。

候補④水田きぬ → 時系列的にあり得ない…

岡山の豆腐店を畳んで夫の郷里に帰ったという安子の親友・水田きぬ(小野花梨)が「たちばな」再建者なのでは?という声も挙がっています。

きぬは戦時中に長姉の嫁ぎ先である農家に疎開し、そこでご近所さんだった夫の力と出会っています。疎開先(=夫の郷里)がどこなのかは明かされていませんが、わざわざ軍港がある横須賀に疎開する可能性は低いのでは?とも思います。

(追記)当初書き上げた文章では見落としていましたが、そもそもきぬは安子がアメリカに行く直前(昭和26年)に岡山で赤ちゃんを産んでいますので(12月22日・第38回)、時系列的に健一が居た時代の横須賀での「たちばな」再建はあり得ないですね。
(追記2)最終回できぬの孫・花菜が登場。きぬは岡山・美作で健在とのこと。

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