NHK連続テレビ小説「らんまん」で主人公・槙野万太郎の生涯のパートナーとなる女性・西村寿恵子(にしむら・すえこ)の人物像などをまとめます。
寿恵子のモデルになっているのは、「日本の植物学の父」牧野富太郎を生涯支えたパートナー・牧野寿衛子(まきの・すえこ)です。
東京下町の菓子屋「白梅堂」の娘 万太郎と運命的に出会う
内国勧業博覧会に酒を出品するために初上京した「峰屋」の当主・万太郎(神木隆之介)は、会場で泥酔した末に木に登っていたところ、後の妻となる女性・西村寿恵子(浜辺美波)と出会い、一目惚れをしてしまいます。
寿恵子は東京の下町・根岸にある菓子屋「白梅堂」の娘でした。やがて植物研究を志して上京した万太郎は、寿恵子と運命の再会を果たすと、家の近所にある「白梅堂」の常連客になっていきます。
元来好奇心旺盛だった寿恵子は、愛おしそうに植物に話しかける万太郎の姿に興味を持つようになり、二人は両思いに。紆余曲折の末に結婚へと至ります。
妻となった寿恵子は、植物研究のためならお金を湯水のように使ってしまう万太郎を受け入れ、あの手この手で家計をやりくりして一家を支えていきます。ついにお金に行き詰まるとあっと驚く方法で家族を救うなど、寿恵子は万太郎の研究生活を明るくたくましく支えていきます。
寿恵子の母・まつ(牧瀬里穂)は元柳橋の売れっ子芸者で、武家のお妾さんになったものの早くに旦那を亡くし、和菓子屋「白梅堂」を営んで一人で娘を育てています。自らの手で生き抜く強さを持つまつに育てられた寿恵子もまた、大地に根を張る植物のような力強さと粘り強さを受け継いでいるようです。
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— 連続テレビ小説「らんまん」 (@asadora_nhk) March 15, 2023
ヒロイン・寿恵子のクランクインの日。
ドキドキの初日ですが、ガッツポーズで気合い十分の浜辺さんです✊#浜辺美波#らんまん #朝ドラ#4月3日スタート pic.twitter.com/gC1JyWspcZ
モデルは牧野富太郎の妻・寿衛子 奔放な夫を生涯支える
ヒロイン・寿恵子のモデルは、「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎を生涯支えた妻・牧野寿衛子(すえこ=壽衛子)です。
もと彦根藩主井伊家の家臣で陸軍の営繕部に勤務していた父・小沢一政と、京都出身の母との間の末娘(次女)として生まれた寿衛子。幼少期は東京の都心部・飯田町(現在の千代田区飯田橋付近)の豪華なお屋敷に住むなど裕福な環境で育ちましたが、父が若くして亡くなると邸宅を売り、財産も失っています。
寿衛子の母は数人の子供を引き連れて飯田町で小さな菓子屋「小沢」を開き、なんとか子供たちを育てたようです。
菓子屋の娘を見初めた牧野富太郎
牧野富太郎と寿衛子との出会いは、富太郎が高知から上京し東京帝国大学理学部の植物学教室に通うようになった頃に訪れています。
当時麹町三番町に部屋を間借りしていた富太郎は、本郷の東京帝大に向かう途中にあった菓子屋「小沢」の前をいつも通っていました。富太郎は下戸の甘党だったこともあり、その菓子屋で茶菓子を買うのが毎日の楽しみだったそうです。
やがて富太郎は店に立つ気品ある娘・寿衛子のことを見初め、知人を介して結婚へとこぎつけたようです(明治23年頃・富太郎28歳頃)。寿衛子は富太郎の11歳ほど年下ですので、結婚時の寿衛子は16〜17歳前後ということになります。
※二人の仲人は、富太郎が植物図譜を自作で発刊するために一時的に弟子入りをしていた印刷屋の主人・太田義二でした。壽衛子に恋をした富太郎は、この印刷屋の主人に相談して壽衛子との仲を取り持ってもらったとか。「らんまん」では奥田瑛二演じる大畑印刷所の工場主・大畑義平がこの人物にあたると思われます。
【追記】ドラマでは純愛物語として描かれている万太郎と寿恵子ですが、史実では結構とんでもない話が伝わっています。
牧野富太郎は20歳でいとこの猶(綾のモデル)と結婚をしたものの、上京後の25歳頃に当時14歳だった菓子屋の娘・壽衛子を気に入り、既婚者ながら強引に同棲生活を開始させたとか。結局壽衛子はすぐに妊娠してしまい、やがて富太郎と壽衛子は結婚。猶はといえば、高知に残されたあげくに岸屋を背負わされ、後に富太郎の指図もあり番頭と結婚をして岸屋を継いでいます。富太郎が財産を派手に使い潰したため、岸屋の経営は急速に悪化しています。
子供が次々に生まれ生活に困窮
根岸に部屋を借りて新婚生活をはじめた富太郎と寿衛子。当初は富太郎の実家の財産が少し残っていましたが、富太郎が植物研究に湯水のようにお金をつぎ込むうちに資金は尽き、すでに子供も生まれていた一家は困窮生活に陥っていきます。※当時の富太郎は植物学教室に出入りする非公式の研究生のような立場であり、ろくな収入もありませんでした。
富太郎は実家の財産整理のために1年近く郷里の高知に戻りますが、その間に長女の園子が病死。これを受けて再上京した富太郎は運良く大学の助手という職を得て月給15円の給料をもらえるようになりますが、その後も毎年のように子供が生まれ(早世した子も含めて全部で13人)、いつしか富太郎一家は借金まみれになっていました。
寿衛子は出産後わずか3日で遠路はるばる債権者のもとに話をつけにいくなど、金に無頓着すぎる富太郎の代わりに奔走。そんな寿衛子を横目に富太郎は奥の部屋で好き放題に植物の研究に没頭し続けたそうで、現代の感覚では炎上必至の夫婦関係が展開されています。
【追記】家賃が払えなくなることがしょっちゅうあったため、一家は実に30回近くも引っ越しを繰り返したそうです。それでもお互いを「すーちゃん」「まきちゃん」と呼び合った若き日の手紙が残るなど、仲睦まじい夫婦でした。寿衛子は自由に生きる富太郎のことを「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」と冗談めかして言っていたとか。
▼富太郎の終の棲家となった練馬・東大泉の旧牧野邸。今は練馬区立牧野記念庭園として一般公開されています(後述)。
牧野記念庭園の入口にあるオオカンザクラが見頃をむかえております。オオカンザクラは、カンヒザクラ(写真3枚目、こちらも見ごろです!)が関与していると考えられる園芸品種で、例年3月上旬に開花する早咲の桜です。一足早い春を感じに、ぜひ牧野記念庭園にいらしてください。 pic.twitter.com/hI8keKmwGa
— 練馬区立牧野記念庭園 (@makinoteienJP) March 8, 2023
「待合」の商いで家計を助ける
ついに生活が立ち行かなくなると寿衛子は渋谷の荒木山に一軒の家を借り、「待合」の商売を始めています。
「待合」といえば芸妓との遊興や飲食を主な目的とする貸席・貸座敷業。客と芸妓が一夜を過ごすなんていう少々いかがわしい現場にもなりがちな空間であり、富太郎は周囲から「大学の先生のくせに待合などけしからん」などとずいぶんと悪口を言われたとか。
この商売は一時的にうまくいき家計の助けになったそうですが、やはり長続きはせず、おかしな客が付くようになって廃業に追い込まれています。
終の棲家は練馬・東大泉 現在の牧野記念庭園 スエコザサが残る
【ご案内】書屋展示室は、「書斎再現プロジェクト」のための展示設営作業の実施に伴い、令和4年12月29日から令和5年4月上旬まで閉鎖し、その期間は見学していただくことができませんので、ご了承ください。この書斎が見られるのも残り数日。リニューアルを楽しみにしたいと思います。 pic.twitter.com/jUoIHd2a8w
— 練馬区立牧野記念庭園 (@makinoteienJP) December 23, 2022
寿衛子はあの手この手で一家を支え、金に無頓着な富太郎の研究を長きに渡り支え続けていきます。
やがて牧野家は東京練馬の郊外・東大泉の地に終の棲家を構えることになります。当時の東大泉は雑木林だらけの寂しい田舎でしたが、寿衛子は富太郎の大切な植物標本たちが都会の大火事で焼失しては困るという考えにより、東大泉に家をつくる計画を立てたそうです。
寿衛子はいずれこの館を中心に東大泉に立派な植物園をつくりたいという夢を描いていました。しかし、家が出来て間もない昭和3年(1928年)、寿衛子は原因不明の病により青山外科で死去。まだ55歳の若さでした。
生前の寿衛子の献身に深い感謝の念を持っていた富太郎は、寿衛子の容態が悪化した時期に仙台で発見した新種の笹に「すえこざさ」と命名。「ササ・スエコヤナ」という学名を附してこれを発表し、その名を永遠に残しています。
富太郎は94歳で亡くなるまで、東大泉の家と庭を「わが植物園」としてこよなく愛したそうです。富太郎が亡くなった翌年の昭和33年(1958年)からは東大泉の家は「牧野記念庭園」として一般公開され、今も地元の憩いの場として親しまれています。
敷地内の記念館では遺族から寄託された富太郎の遺品などが展示され、園内には「スエコザサ」や富太郎が愛した植物たちが大切に受け継がれています。
【備考】なお、これらの話はあくまで牧野富太郎自身が自叙伝などで語った内容をもとに書いています。牧野富太郎は実際には遊郭で遊び回っていたとか、それゆえに借金がかさんだとか、さまざまな悪評も語られています。また、当時14歳だった壽衛子と20代後半の富太郎が同棲していたという話もあり、「らんまん」では年齢差を縮めた上でラブストーリーとして描かれています。
▼新婚時代に生活した根岸にもほど近い谷中の天王寺墓地(谷中霊園)には、牧野富太郎・寿衛子夫妻のお墓があります。富太郎は寿衛子に先立たれた際に、墓碑に「家守りし 妻の恵みや わが学び」「世の中の あらん限りや スエコ笹」という妻を偲ぶ二句の詩を刻んでいます。時に周囲を振り回して奔放な人生を生きた富太郎ですが、寿衛子のことは心から大切に思っていたようです。