NHK連続テレビ小説「ちむどんどん」第2週で明かされた、比嘉家の借金事情。大黒柱の賢三が急死したことで借金返済が苦しくなる比嘉家でしたが、翌第3週では借金問題は語られず、変わらぬ日常生活が繰り広げられています。
この記事では、1964年(昭和39年)当時に比嘉家が背負っていた借金の額、当時の沖縄女性の給与水準などをまとめます。
借金総額は500ドル(米ドル) 賢吉が保証人
夫婦で行うサトウキビ栽培を主な生業としていた比嘉家。賢三・優子夫婦は借金を重ねながら4人の子育てを行っていたようです。賢三はサトウキビ畑のオフシーズンには出稼ぎをし、何とか家族5人が食べていける日銭を稼いでいたようですね。
やがて無理がたたったのか、賢三は急死。優子と子供たちには銀行に400ドル、県議士に100ドル、合計500ドルという多額の借金が残されています。
銀行の借金分は賢三の叔父・賢吉が保証人となっており、この返済が滞ると賢吉夫婦も共倒れになってしまいます。賢吉は賢三が建てた持ち家を売ってでも借金を返済するように強く言いますが、子供たちがこれに大反対。優子が必死に働くという条件で、問題の解決を先延ばしにしています。
【先に結論!】
優子の置かれた状況を令和現在の感覚でいうと、進学を控えた4人の子を抱えるカツカツのシングルマザーが、いきなり数百万円の借金を抱えてしまったような状態。詳しくは以下の文章で。
借金額は当時の日本円で18万円 現在の貨幣価値では?
1964年(昭和39年)当時の沖縄はアメリカの統治下にあり、島内の通貨はアメリカドルが使われていました(※沖縄で米ドルが法定通貨だった時期は1958年〜1972年)。
この当時、1ドル=360円という固定相場制が採用されていましたので(現在のような変動相場制への完全移行は1973年)、このレートで比嘉家が背負っていた借金500ドルを日本円に換算してみましょう。
★比嘉家の借金(ドル→円)
・銀行から400ドル=144,000円
・県議士から100ドル=36,000円
・合計500ドル=180,000円
比嘉家は当時の日本円換算で18万円ほどの借金を抱えていたことになります。
2010年(平成22年)を100とした消費者物価指数では、1964年は24.0となっています。※暢子が高校3年生になった1971年は34.8。
令和現在も2010年とそれほど物価は変わっていないので、2010年=現在と考えると、現在の物価は1964年当時の4.17倍(100÷24.0)。(単純計算にはなりますが)1964年の18万円(500ドル)=現在の75万円ほどの価値ということになります。
この数字はあくまで消費者物価指数をもとにした大雑把な計算です。後述するように、当時の沖縄女性の給与水準を考慮すると借金500ドルがいかに大きい数字かが見えてきます。
当時の沖縄女性の給与水準はかなり低い…
「琉球政府の時代」というサイトによれば、当時の給与水準は「日本本土を100とした場合、沖縄は1962年で62.7、1966年で77.8、68年で81.3」。年々本土との格差は縮まっているとはいえ、当時の沖縄の給与水準は決して高いものとは言えません。賢三が亡くなった1964年当時でいえば、沖縄の給与水準は本土の7割程度でしょうか。
また、1964年当時の沖縄の実質の月間総平均給与は、男性が77ドル(=27,720円)、女性が43ドル(=15,480円)。
優子は工事現場で日雇いで働いており、月給は43ドル(=15,480円)よりもさらに低いと考えられます。
優子はいきなり月給(43ドル以下)の1年から2年分に相当する借金(500ドル)を背負ってしまったわけで、令和現在の感覚で言えば、4人の子持ちのシングルマザーがいきなり200〜400万円くらいの借金を抱えてしまった感じでしょうか。
借金に加え、優子は4人の子供たちを高校(賢秀、暢子、歌子)、短大(良子)に通わせたとのことで、かなりの収入がなければ生活は成り立ちません。このあたりの採算の不自然さがドラマ内で説明されることはあるのか、今後の展開に注目です。
※この章の統計データは、いずれも『労働経済の概況 1970年04月 離職者等総合対策本部』を参照。