朝ドラ「らんまん」鉄道庁の役人・相島圭一 モデルは五島慶太(東急の祖)か 小林一三と師弟関係

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NHK連続テレビ小説「らんまん」に登場している逓信省鉄道庁の役人・相島圭一(森岡龍)。

そのキャラクターモチーフ(モデル)になっているのが「東急グループの祖」と称される五島慶太(ごとう・けいた)である可能性が高まりましたので、五島慶太と小林一三の師弟関係などを含めてまとめておきます。

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目次

【らんまん】鉄道庁の役人・相島圭一は岩崎弥之助、小林一三と飲み仲間

逓信省鉄道庁の役人をしているという相島圭一(森岡龍)がドラマに初登場したのは、第21週・第104回(8月24日放送)のこと。

相島圭一は、寿恵子(浜辺美波)が働く新橋の料亭「巳佐登」の常連客の一人として、実業家の岩崎弥之助(皆川猿時)、陸軍大佐の恩田忠教(近藤公園)、政治家の掛川道成(鈴木壮麻)らと宴を楽しんでいます。

お座敷遊びも手慣れている様子の相島。

仲居として天性の接客力を見せる寿恵子のことも気に入ったようで、後に寿恵子が渋谷で待合茶屋「やまもも」を開くと、知人の銀行員・小林一三(海宝直人)を連れて「やまもも」に来店してくれます(第23週のラストシーン)。

第24週では、「やまもも」の店内で小林一三が相島に対し「この渋谷には、あなたが降り立てばいい!」と熱弁する様子が描かれています。鉄道事業に未来を感じている小林一三は、自身が関西に赴任してしまうこともあり、この渋谷の町で相島に鉄道事業を起こして欲しいと焚き付けたのでした。

正直、相島圭一のモデル=五島慶太という確信が持てなかったため記事にはしていなかったのですが、この小林一三のセリフにより相島圭一のモデル=五島慶太であることがほぼ確定しましたので、以下にまとめておきます。

(推測)なぜ相島圭一は「五島慶太」の名で登場しない?

※なぜ「岩崎弥之助」「小林一三」は実名で登場しているのに、「五島慶太」は「相島圭一」なの?と疑問に思う方もいらっしゃるかも知れません。

実は、相島圭一が「巳佐登」に通っていた第21週の時代設定は1893年(明治26年)頃なのですが、五島慶太は1882年(明治15年)生まれであり、もし「五島慶太」としてドラマに登場してしまうと計算上11歳で「巳佐登」に通っていることになってしまうのです。※初登場時の小林一三(「やまもも」初来店時。1898年=明治31年?)は計算上25歳前後。

なので、五島慶太の人物イメージをモチーフとしつつ、基本的には架空の人物として「相島圭一」を描いているのだと思います。

▼相島圭一を演じている森岡龍は、朝ドラ「あまちゃん」にも黒川正宗(尾美としのり)の若き日の役で出演。なぜか「あまちゃん」ファミリーが多い「らんまん」。

【史実】渋谷の街の基礎を作った東急の祖・五島慶太

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五島慶太(ごとう・けいた)といえば、東京の代表的企業の一つである東急グループの基礎を作った人物として知られます。

1882年(明治15年)に長野県の農家に生まれ、東京帝国大学を卒業後に官僚となって農商務省、次いで鉄道院へと移った五島慶太。

1920年(大正9年)には鉄道院を辞して武蔵電気鉄道(東急東横線の前身)の常務に就任すると実質的な経営権を掌握し、以降は池上電気鉄道(現在の東急池上線)や玉川電気鉄道(後の東急玉川線)などを次々と買収。

沿線の住宅開発、娯楽施設の建設、ターミナル駅での百貨店経営(渋谷・東横百貨店)など、鉄道を軸として沿線の付加価値を高めていく複合事業を次々と興し、こんにちの東急電鉄、東急グループ(大東急)の基礎を作った人物として知られます。

東急グループの本拠地として知られる渋谷の街は五島慶太によって骨格が形作られており、五島慶太は「渋谷と東急を作った男」などとも称されていますね。

小林一三は五島慶太の「師匠」 「西の小林、東の五島」

「らんまん」で描かれる小林一三と相島圭一の関係性は、「師匠と弟子」の関係にあった小林一三(阪急グループ創業者)と五島慶太(東急グループの実質的創業者)の関係性がモチーフになっていると予想します。

二人はともに鉄道経営と沿線開発の複合的事業により一大企業グループを作りあげ、「西の小林、東の五島」と並び称された東西鉄道界の雄ですね。

1918年(大正7年)、実業家の渋沢栄一らが荏原電気鉄道を軸に理想の住宅街の開発を目指す田園都市株式会社を東京で設立したものの、当初は幹部陣が素人ばかりだったために経営は難航。そこで同社は、すでに関西で鉄道経営と沿線開発で成功を収めていた小林一三に経営指導(無報酬)を依頼しています。

小林一三は月に一度上京して経営会議で進言を繰り返していましたが、やはり現場の実務を任せられる右腕が欲しいとなったようです。そこで小林一三は、当時武蔵電気鉄道(東急東横線の前身)を手掛けようとしていた五島慶太を田園都市株式会社に呼び寄せています。

その後、田園都市株式会社の鉄道部門を分離した目黒蒲田電鉄株式会社(1922年創立・現在の東急電鉄の前身)、及びその姉妹会社である東京横浜電鉄(1924年創立・現在の東急東横線の母体)の専務取締役に五島慶太が就任。小林一三も1936年まで両社の取締役として経営に関わっています。

この間に行われた鉄道経営、沿線住宅・レジャー施設開発、渋谷の東横百貨店開業(1934年)など五島慶太が中心となり手掛けた事業(後の「大東急」のベース)は、まさに小林一三直伝のもの。「乗客は電車が創造する」という小林一三の考えをそのまま東急グループの事業に活かしています。

五島慶太は師匠の小林一三について以下のように語っています。

「私は一に小林一三の智恵をかりた。まあ教えを受けたというかたちだ。彼は今太閤というくらいの人だから智恵はあった。結論はすぐつく。何を相談に行ってもなんでも小林のところに行けば、すぐ解決索をさずけてくれた。最近はそうでもないが、実業家になって以来三十年間というもの、何でも彼に相談した。」

「らんまん」で小林一三が鉄道庁出身の相島圭一に渋谷の街を託すらしき描写は、小林一三と五島慶太の師弟関係、五島慶太がこんにちの渋谷の生みの親であることなどをモチーフにしていると予想します。

寿恵子が「やまもも」を開店した当時の渋谷には「渋谷停車場」があるのみ。鉄道経営に目覚めた相島圭一がこの地に新しい風を送り込むのかも知れません。

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