「どうする家康」家康の家臣・石川数正(松重豊) 後に豊臣秀吉のもとに出奔、松本城天守を築城

NHK大河ドラマ「どうする家康」で松重豊が演じている松平家(徳川家)の家臣・石川数正(いしかわ・かずまさ)についてまとめます。

駿府での人質時代から家康を見守っていく数正ですが、やがて家康から離れ、豊臣秀吉のもとへ出奔するという驚きの行動を見せることになります。数正は国宝・松本城の天守などをつくった人物としても知られます。

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家康の口うるさい家臣 交渉人として活躍

徳川家康の片腕として、左衛門尉こと酒井忠次(大森南朋)とともに双璧の存在になっていく石川数正(松重豊)

三河国小川城を拠点として松平家に仕えていた三河石川氏の生まれで、数正は家康が駿府で今川義元の人質になっていた時代から、供奉随臣筆頭として家康のそばに仕えています。

数正は家康の10歳ほど年上だと考えられ、「どうする家康」では気弱で情けない家康を時に叱り、口うるさく尻を叩く年上の側近として描かれます。

家臣団のツートップの一人である酒井忠次がえびすくいの余興で周囲を楽しませるなど「気遣いの人」として出世していくのに対し、数正はいつも一歩引いて冷静沈着に家臣団を観察する人物。家康はバランス感覚を持った常識人・数正の進言をよく取り入れ、数正に信頼を寄せていきます。

数正は戦で多くの武功を挙げるとともに、「交渉人」としての高い能力も見せていくことになります。

家康の正室・瀬名(有村架純)と子供たちが駿府の今川氏真のもとに取り残されてしまった際には人質交換の交渉を任されたほか、織田信長と交渉を行って清洲同盟の成立にも大きく貢献。信長の死後には台頭してきた羽柴秀吉との交渉も担当するなど、数正の交渉力が家康の躍進の根幹を支えていきます。
※一向宗が家康と激突した一向一揆の際には、石川氏一族が本證寺(三河一向一揆の拠点となった寺)の門徒であったにも関わらず、数正は浄土宗に改宗し、家康に尽くしています。

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秀吉のもとに出奔 初代松本藩主に 国宝・松本城の天守を築城

酒井忠次とともに家康家臣団を牽引していく数正ですが、天正13年(1585年)に家康のもとを飛び出し、豊臣秀吉のもとに出奔してしまいます。

三河勢の軍事機密を知り尽くしていた数正が豊臣側に流出したことは大きな痛手であり、三河勢は陣法や戦略を一新せざるを得なくなったとされます。

数正の出奔の理由については、

・家康と不仲になっていたため裏切った(信康の切腹事件がキッカケとも)
・豊臣家との和睦の推進派だったために家臣団の中で孤立した
・秀吉からヘッドハンティングされた
・秀吉に惚れ込んで自ら投降した
・秀吉との戦を回避するために密命を背負って豊臣に潜り込んだ

などさまざまな説が語られていますが、はっきりとその理由はわかっていないそうです。「どうする家康」で数正の出奔の理由をどのように扱うのかが、大きな楽しみの一つとなりそうです。

人心掌握術に長け情に厚い酒井忠次と、どこか冷めた目で家康家臣団を見ていた石川数正。ドラマ序盤から描かれる数正の人間性の中に、出奔に至る理由が隠されているかも知れません。

豊臣に帰順した後、数正は秀吉から河内国内で8万石を与えられ、通称を出雲守に変更。

小田原征伐の後には信濃国松本8万石(または10万石)に移封となり、数正は信濃松本藩の初代藩主になったといわれます。松本に根を下ろした数正は、名城と名高い松本城の天守の築城、城郭・城下町の整備などを行っています。※この松本城天守の築城は、関東に移った家康に対する牽制・防衛のためだともいわれています。

▼松重豊の奥様は信州松本育ち。そして奥様のお父様はNHK松本支局の局長だったという不思議な縁。

▼「孤独のグルメ」が国民的人気ドラマになったのをはじめ、松重豊は今や名バイプレイヤーとしての地位を不動のものにしています。NHK朝ドラ「カムカムエヴリバディ」では時代遅れの時代劇役者・伴虚無蔵役を演じたほか、大河ドラマ「八重の桜」では会津藩士・山本権八役、「いだてん」ではスポーツ医学の権威・東龍太郎役を演じています。

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