NHK連続テレビ小説「らんまん」第23週(9月4日〜)では、寿恵子が商いを始めたいという新たな夢を抱え、叔母のみえに勧められた土地・渋谷に降り立ちます。
寿恵子のモデル人物である牧野壽衛子は、夫の研究と家計を支えるために渋谷の荒木山(現在の円山町)で「待合」という商売を行っており、この史実がモチーフになっていると考えられます。
【らんまん】みえから商いを勧められる寿恵子 待合茶屋「やまもも」をオープン
叔父叔母夫婦から、東京郊外の渋谷で商売を始めて見ないかと勧められた寿恵子(浜辺美波)。
なんでも「弘法湯(こうぼうのゆ)」というお湯屋がある渋谷に陸軍の練兵場が出来ることになり、そこに岩崎弥之助の知り合いが土地を持っているのだとか。これから発展するであろう渋谷で店を持ってみないかという誘いでした。
義姉夫婦(綾、竹雄)が上京して新しい屋台商売を始める姿に刺激を受けた寿恵子は、万太郎の図鑑製作の夢を叶えてあげたいという一心で、商いを始めることを決意。万太郎の後押しを受けて、みえから勧められた地・渋谷に向かうことになります。
明治30年当時の渋谷(道玄坂付近)は「渋谷停車場(明治18年開業。後の渋谷駅)」が出来ていたとはいえ、まだ周囲に農村地帯が広がり、中心部の通りも薄汚いような場末の町でした。
しかし、渋谷の人々や町を観察し続けるうちに、寿恵子はすっかりこの町に魅了されてしまいます。寿恵子は町の中心にある「弘法湯」の佐藤(井上順)らを座敷に呼ぶと、渋谷を人の集まる町にしたいと夢を語った上で、この地に待合茶屋を出したいと決意を伝えます。
やがて寿恵子は、待合茶屋「やまもも(山桃)」をオープン。店は「巳佐登」の先輩仲居・フミ(那須凛)が手伝ってくれるほか、芸者のとよ香(入山法子)らも協力してくれそうです。「巳佐登」の常連だった相島(森岡龍)や若き日の小林一三(海宝直人)らも店に通ってくれ、経営は軌道に乗っていきそうです。
※この「やまもも」という店名は、義姉夫婦の屋台「土佐」で出されたヤマモモの甘露煮が由来となりそうです。店の守り神となる木が必要と考えた万太郎は、姉夫婦が「高知の真心」として屋台に出したヤマモモの味を覚えていたのでしょう。助手の虎鉄の実家に頼み、小さなヤマモモの木を取り寄せ、それを店先に植えています。
▼1896年(明治29年)頃、空き物件だったこの土地を120円で購入した寿恵子。29年後に見事に5万円で売り抜けています。当時の5万円を現在の貨幣価値で計算してみたところ、とんでもない金額だと判明…。
【史実】渋谷・荒木山(円山町)で「待合」を経営した牧野壽衛子
この一連のエピソードは、寿恵子のモデル人物である牧野壽衛子が、家計を支えるために商売を立ち上げた実話がもとになっていると考えられます。
大正の半ばすぎ。多数の子供を抱える牧野富太郎一家は、多額の借金を抱えては政財界の富豪に手助けを受けるような綱渡りの生活を送っていました。妻の壽衛子はそんな生活を脱しようと一念発起し、自らが事業主となって商売を立ち上げることになるのです。
※ドラマで寿恵子が起業したのは明治31年頃でしたが、史実で壽衛子が待合茶屋を開店したのは大正半ば過ぎの出来事であり、少し時代が違います(牧野富太郎の自叙伝による)。
ドラマでは寿恵子が黎明期の渋谷に乗り込むという設定になっていますが、史実では1887年(明治20年)頃に義太夫流しが弘法湯の前で「宝屋」という芸者屋を開業し、そこから花街・荒木町が発展を始めています。時系列的に、壽衛子が荒木町で商売を始めたのはある程度花街が発展して以降のことになるかと思います。
壽衛子が選んだ商いは、「待合(まちあい)」と呼ばれるもの。※これ以前に母の稼業でもあった菓子屋を立ち上げたことがあったそうですが、こちらは上手く行かず。
「待合」とは会合の場所などを提供する貸席・貸座敷業のこと。店内では芸妓との遊興や飲食などのサービスが提供され、客と芸妓が一夜を過ごすなどという少しいかがわしい展開にもなりがちな空間です。
壽衛子はわずか3円という開業資金を手に渋谷の花街・荒木山に小さな一軒家を借りると、実家の別姓だった「いまむら」を屋号として「待合」を開業しています(※後述しますが、荒木山は現在の渋谷・円山町付近のこと)。
壽衛子に商売の才覚があったのか、この待合業はなかなか上手く行ったようです。店は渋谷でそこそこ知られる存在となり、牧野家は一時的に家計が改善したようですね。
とはいえやはり素人商売であり、次第に悪い客が付いてしまい資金繰りが悪化。ほどなく閉店してしまったそうです。
※当時の富太郎は帝国大学で働く身でしたから、妻の商いが周囲に漏れ伝わってしまうと、「大学の先生のくせに待合をやるとはけしからん」などと随分と悪口を言われたとか。
【渋谷・豆知識】「弘法湯」から花街に発展した円山町(荒木山)
▼「神泉駅」という名前が残っていることからもわかるように、谷筋のこの一帯は湧き水が豊富でした。その水を利用した湯治場「弘法湯」を中心に、花街・荒木山が発展しています。
現在は居酒屋、割烹、ライブハウス、ホテルなど雑多な商売が入り乱れる歓楽街となっている、道玄坂横の渋谷・円山町。この一帯の土地を鍋島藩の荒木氏が所有していたため、昭和以前までは「荒木山」と呼ばれていました。
荒木山には江戸時代から「弘法湯」というよく知られた共同浴場がありました。渋谷を通る大山街道は、いわゆる「大山詣で」や、人気スポットだった下北沢・真巌寺の「粟島の灸」に向かう人たちによる往来があり、「弘法湯」はそうした通行人の寄り道スポットだったのです。
渋谷駅が開業した明治中期以降にはこの「弘法湯」を中心に、湯治客らを相手にした芸者屋、料理屋などが急増し、東京有数の花街として発展しています。
1921年(大正10年)には芸妓置屋137戸、芸妓402人、待合96軒があったとされ、関東大震災直前には420名にものぼる芸妓が居たとか。
牧野壽衛子もこの花街・荒木山に「待合(茶屋)」というビジネスチャンスを見出し、開店したというわけですね。牧野富太郎はこの荒木町にあった家で関東大震災に遭遇しており、自然を愛する牧野富太郎がこんな賑やかな土地にいたのもちょっと面白いです。
▼現在の渋谷・円山町。雑多な商売が入り乱れる裏路地の歓楽街です。壽衛子もこの街で商いに奮闘しました。
▼こちらは円山町の裏渋谷通り。「らんまん」の寿恵子もこんな感じの猥雑な商店街で商いに挑むのでしょうか。
▼【参考記事】牧野富太郎一家は、渋谷・荒木山に住んでいた頃に関東大震災に遭遇しています。「らんまん」でも渋谷の地名が出てきたことから、関東大震災が近いことを予感させます。